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ニューオリンズ音楽から生まれた大滝詠一の「福生ストラット」は、ウルフルズの「大阪ストラット」によって全国に知られた

2018.05.04

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1975年5月30日に発売されたセカンド・アルバム『NAIAGARA MOON(ナイアガラ・ムーン)』を発表した頃の大瀧詠一は、「びんぼう」や「福生ストラット」といったリズミックでファンキーな日本語の楽曲に挑んでいた。

その頃にデビュー前の山下達郎らとともにニューオーリンズ音楽を研究しつくすという、誰もやったことのない試みに没頭していたのは、1973年にはっぴいえんどでアメリカ録音を体験した影響からだった。
その結果、ニューオリンズ・ファンクの傑作が誕生したといえる。

『NAIAGARA MOON』に収録された「福生ストラット(Part Ⅱ)」の歌詞は、通常の歌の概念を越えてなんとも短いものだった。

これだけの歌詞を繰り返しながら最後に転調のパートが出てくると、そこからはJR青梅線の「中神」「昭島」「拝島」「牛浜」と駅名が続いて最後は「福生」で締める。
銀座や新宿などの東京ソングに比べると、きわめて地味ではあるが貴重な西東京ソングになっていた。


大滝詠一の薫陶を受けたギタリストの伊藤銀次は自伝「MY LIFE,POP LIFE」のなかで、ニューオーリンズ音楽の方向に目を向けたことについて、このように述べている。

僕ははっぴいえんどの頃からずっと大滝さんの曲が好きで、最初のソロ・アルバムも大好きだったし、大滝さんって歌の人だとずっと思ってたんです。ところが実際に会ってみるとリズム・アレンジがすごくて。

『NAIAGARA MOON』でニューオーリンズの方を向いたのも、マニアックな方向に走ったわけじゃなくて、ドクター・ジョンの”ライト・プレイス・イン・ザ・ロング・タイム”がヒットしたり、ザ・バンドがアラン・トゥーサンにアレンジを頼んだり、トゥーサンが手がけたラベルの”レディー・ママレード”が大ヒットしたりして、ニューオーリンズのサウンドが海外でホットだった時期に、細野さんや大滝さんはそれをリサーチしてやっていた。


ちなみに「FUSSA STRUT PART I」は1976年3月に発売されたアルバム『NAIAGARA TRIANGL VOL.1 (ナイアガラ・トライアングル)』に収録されている。
これはナイアガラ・レーベルに所属した山下達郎(シュガー・ベイブ)、伊藤銀次(ごまのはえ~ココナツ・バンク)、そして大滝詠一がそれぞれ楽曲を持ち寄ったオムニバスLP盤だ。

しかし『NAIAGARA MOON』も『NAIAGARA TRIANGL VOL.1』もセールス的にまったく振るわず、「福生ストラット」は知る人ぞ知る傑作という扱いであった。
「福生ストラット」が広く知られるようになったのは1981年以降で、アルバム『A LONG VACATION』がブレイクして大瀧詠一が脚光を浴びて旧作が評価さた後からのことだ。

そしてはウルフルズが「大阪ストラット」いうタイトルでカヴァーし、1995年にシングルが発売されたことで全国的に広まった。
ただしそのカヴァーは歌詞を福生から大阪に置き換えただけでなく、ウルフルズらしい破調の大阪賛歌に仕立てあげてラップも入る大作になっていたので、原曲が大滝詠一のものだと気づかない人も多かった。

実はウルフルズはこの曲の前にも、セカンド・アルバム『すっとばす』で、大滝詠一の「びんぼう‘94」というニューオーリンズ・ファンクをカバーしている。
それは伊藤銀次が全面にプロデュースにかかわったに収録されたが、元歌にはなかった3番の歌詞を大滝詠一が新しく書き加えていた。



1992年にアルバム『爆発オンパレード』で東芝EMIからデビューしたウルフルズは、セールスが振るわなくて契約が切られそうになったことがある。
その時に宣伝スタッフ一人が、後に担当ディレクターになる制作部の子安次郎に、「素晴らしいバンドだから聞いてほしい」と直訴した。

子安はライブを見に行って、トータス松本の歌い方や体を硬直させる仕草などから、「ナイアガラ音頭」を歌った布谷文夫を思い出したという。
そこで大滝詠一と師弟関係にある伊藤銀次に、プロデュースを依頼したのだ。

伊藤銀次は「このバンドは”勝手にシンドバット”で出てきた頃のサザンオールスターズや、RCサクセションの後継者を目指すべきだと思った」という。
だから「いい曲だねなんていうレベルの曲ではダメ」で、ヴォーカルのトータス松本の魅力が活きるインパクトのある曲が欲しかった。

アルバム『すっとばす』を制作するにあたってはインパクトのある楽曲だけに絞ったので、収録曲は8曲と少なかったが濃密な内容になってウルフルズの可能性が広がった。
そのなかで「びんぼう」カヴァーしたのは子安から出たアイディアで、伊藤銀次には大きなプレッシャーだったそうだ。

ちょうどバブルがはじけって頃で、面白いと思ったんだけど。大滝さんの曲を僕がアレンジするわけですから、ものすごいプレッシャーですよ。どうするか悩みましたけど、原曲のクールでかっこいい感じをガラッと変えて、「トータスをレニー・クラヴィッツにしてしまえ」と思って(笑)。出来上がってから大滝さんに感想を訊いたら、「俺のよりかっこいいよ」と言ってくれて、うれしかったですね。


『すっとばす』は東芝の宣伝スタッフからも評判が良く、セールスもいい具合になってきたので連続してマキシ・シングルを出そうと、前向きなアイディアが出てきた。
その時に子安が再び出したアイデアが「福生ストラット」のカヴァーで、伊藤銀次が大滝詠一に相談すると、「銀次、ウルフルズはごまのはえだ。これは弔い合戦だ。頑張れ」と励まされた。

そのおかげで思い切ったプロデュースができたことによって、歌詞を大阪のものに固有名詞を差し替えたばかりか、コント仕立てのラップを加えるなど大胆なアレンジで成功したのである。


「大阪ストラット・パートII」はトータス松本の強力な個性が発揮されて、大阪テイストに満ちたPVの効果も大きく、ウルフルズの名を一気に全国区にしたのである。

1995年5月21日発売の「大阪ストラット・パートII」に続いて、7月19日に「SUN SUN SUN’95」が発売になった。
そして3枚連続シングルの最後、12月6日に発売された「ガッツだぜ!!」でウルフルズはついにブレイクしたのだった。


『伊藤銀次 自伝 MY LIFE, POP LIFE』(単行本)
シンコーミュージック


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