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フランク・シナトラのTVショーに呼ばれて「ラヴ・ミー・テンダー」で共演したエルヴィス

2018.07.06

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エルヴィス・プレスリーが2年間の兵役を終えてアメリカ陸軍を除隊した後、最初に行った仕事はTVの特別番組『フランク・シナトラ・タイメックス・ショー』へのゲスト出演だった。

それを決めたのはマネージャーのパーカー大佐だったが、彼は2年間の空白があってもエルヴィスの人気には何の陰りもないことを証明するために、エンターテインメントの世界に君臨するシナトラに呼ばれて、対等の立場でゲスト出演するのが好ましいと判断したからだろう。
もちろんそこには抜け目のない商売人ならではの、相手を利用しようとする思惑や計算が含まれていた。
なぜならばアメリカで旋風を巻き起こした1956年から57年にかけて、シナトラは公式の場でエルヴィスについてこんな発言をしていたのである。

ロックンロールはインチキでうそっぱちで、大部分は、白痴っぽいろくでなしのためにうたわれ演奏され、また、そのような人たちによって作曲されている。


それにもかかわらず自分のショーを放送する特別番組の最終回にエルヴィスを呼ぶことを考えたのは、シナトラの側にいささか切羽詰まった状況にあったからだ。

特別番組『フランク・シナトラ・タイメックス・ショー』は、全部で4回のショーがオンエアされる予定だった。
ところが第3回の「バレンタイン・デー・スペシャル」の視聴率がまったく伸びずに終わり、回を追うごとに数字が低迷していく結果になったのだ。

だから最後はなんとしても全米中の人の注目を集めて王者であることを見せつける必要がでてきたところに、2年間の空白を経てエルヴィスがドイツから帰国してシーンに戻ってくることになった。

そうした事情を察知していたパーカー大佐は、6分間のゲスト出演に対して12万5000ドルという途方もない出演料を要求した。
当然ながらシナトラはその提示に怒ったが、背に腹は変えられずいうがままに支払うしかなかった。

それだけ出費をしても注目を集めなければならくなったシナトラは、1960年3月3日に赴任先のドイツから帰国したエルヴィスを、父親の名代として娘のナンシーにマクガイア空港で出迎えた。
そしてシナトラからの手紙を渡すという、いかにもマスコミ向けのセレモニーが行われた。 

ショーの収録はフロリダ州マイアミにある最も豪華なホテル、フォンテンブロー・ホテルでおこなわれる予定だった。
パーカー大佐はこのとき、エルヴィスを自宅のあるメンフィスからマイアミまで、あえて車移動ではなく汽車に乗って向かわせた。
それは生身のエルヴィスをできるだけたくさんの人たちの目に触れさせて、健在ぶりをアピールするためだった。

アメリカ中が一挙手一投足に注目しているエルヴィスを見ようと、鉄道の沿線にはどんな小さな町でも人が繰り出してきた。
一緒に移動していたギタリストのスコティ・ムーアが、こんな証言を残している。

昼も夜も関係なく、二十四時間ぶっとおしで、マイアミまでずっとそうだった。カメラマン。若いファン。とにかくたくさんいて、それだけの人たちが、いったいどこからあつまってくるのか不思議だった。


パーカー大佐はいくつかの街で、エルヴィスを列車の最後部車両の展望台に立たせた。
エルヴィスはまるで大統領候補のように、そこでエ手を振ってサインをしたのである。
その様子はローカルラジオが逐一放送したし、新聞社も報道してくれたので事前告知としては十分すぎるものになった。

マイアミ地区のファンクラブのメンバー300人を集めて事前に集会を開いたパーカー大佐は、「エルヴィスが陸軍に入っていた間ずっと皆さんがエルビスの間で来てくれて私は非常に嬉しい」の述べた。
そして感謝の気持ちとして、ホテルでのショーの入場券を全員にプレゼントした。

エルヴィスはシナトラが過去に「嘆かわしい、腐臭のする性欲増進剤のようだ」と語った言葉、忘れていなかったので気の進まない仕事だった。
だがそんな気持ちを表に出すことはなく、「ミスタ・シナトラ」と相手を立てて接していた。
彼は2年間の空白期間を通して、自分に求められているエルヴィス像を人前で演じていく覚悟を、すでに決めていたのである。

リハーサル中だったエルヴィスはその頃、歌っている間は体を動かさずにじっとしているようにいわれたが、だまって頷いていた。
本番が近づいてくると、客席の大半は裕福そうな中年のシナトラ・ファンであった

そして観客も詰め掛けていたたくさんの報道陣も、ふたつの異なった世代のアイドルが同じ場にいて、テレビのために共同で出演しているだけではなく一緒に歌うシーンに立ち会った。

シナトラの紹介で登場したエルビスは、自分の新しいシングルの A面とB面の2曲を歌った。
その後でシナトラが「ラヴ・ミー・テンダー」をビッグ・バンド・ジャズのスタイルで歌い始めるとと、エルビスが途中からシナトラの代表曲「ウィッチクラフト」を歌って引き継ぎ、次いでシナトラへと受け渡して掛け合いでデュエットをした。

  

ビデオ収録から1ヵ月後の5月12日にオンエアされたその特別番組は、わずか8分ほどの出演なのに「フランク・シナトラのウェルカム・ホーム・パーティ・フォー・エルヴィス・プレスリー」というタイトルになった。
そして視聴率は41.5%にも達したので、シナトラが意図した十分な成果をあげることができたのだった。

ただし批評家などには例によって受けが良くなく、ビルボード誌には「期待されたダイナマイトはすこし期待はずれだったと言えばこれは丁重な言い方である」という批評が載った。
ニューヨーク・タイムズ紙の評は初めから悪意に満ちていて、これでもかというくらいに辛辣な口調だった。

オーケストラ、及び、狂乱した若き崇拝者たちの金切り声を伴奏に、ミスタ・シナトラとのデュエットもふくめてプレスリーは数曲歌った。エルヴィスは陸軍では軍曹にまでなったが、歌手としては、分隊のぶざまな一兵卒の域を出ていない。彼の歌には道徳的に見て不埒なところは何もなかった。ただ単にひどかっただけである。


しかしフロリダでのショーを終えたエルヴィスは、「彼らは僕のためにできる限りのことをしてくれていたよ。聞いていたのと全く違っていた」と、シナトラを絶賛したという。

ただしエルヴィスと生活をともにしていた仲間たち、メンフィス・マフィアのマーティ・ラッカーは後に、エルヴィスから聞いた話としてこう述べている。

でもあいつらのことだから、きっと裏では違うことを言っていたんだろうよ。ある時ミア・ファーロウがエルヴィスに打ち明けたところによると、シナトラは「彼と同じ部屋にいるのは耐えられなかった」と言っていたそうだ。


それでもエルヴィスはその後もシナトラ一家とは友好的な関係を保ちつづけ、特にサミー・デイビス・ジュニアとは腹を割って話せる仲だった。






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