「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the SONG

アメリカン・ポップスの黄金時代を牽引するリーバー&ストーラーが脚光を浴びた「ハウンド・ドッグ」

2018.07.20

Pocket
LINEで送る


アメリカン・ポップスの黄金時代を牽引したジョニー・リーバー&マーク・ストーラーが書いた最初のナンバーワン・ヒットは、ゆったりしたルンバのリズムの乗せたシンプルなブルースだったので、楽曲を作るのには15分もかからなかったという。
「ハウンド・ドッグ」は1952年8月13日にR&B歌手のビッグ・ママ・ソーントンによってレコーティングされて、翌年にリリースされてR&Bチャートで1位になったた。

You ain’t nothing but a hound dog
Been snoopin’ ‘round the door
You ain’t nothing but a hound dog
Been snoopin’ ‘round my door
You can wag your tail
But I ain’t gonna feed you no more

あんたなんか ただの女たらし
入り口辺りを嗅ぎってる
あんたなんか ただの女たらし
あたしの入り口辺りを嗅ぎってる
たとえ尻尾を振ったとしても
あんたなんかにエサをあげるつもりはない

You told me you was high-class
But I could see through that
Yes, you told me you was high-class
But I could see through that
And daddy, I know
You ain’t no real cool cat

いい身分だなんて言ったって
あたしにはお見通しさ
そう いい身分だなんて言ったって
あたしにはお見通しさ
ダディ、あたしはわかるんだ
あんたがクールな猫なんかじゃないって




1956年にメジャーのRCAに移籍して「ハートブレイク・ホテル」が大ヒットし、空前のブレイクを遂げつつあったエルヴィス・プレスリーは、4月23日から2週間の予定でラスベガスのフロンティア・ホテルのビーナスルームのショーに出演した。
だが結果からみれば、その仕事は大失敗に終わった。

観光でラスベガスにやってくるのは主に中産階級の中年夫婦たちであり、エルヴィスに熱狂するようなティーンエージャーたちはどこにもいなかった。
オーケストラやコメディアンとともに出演していたエルヴィスに対して、子どもたちが大騒ぎしているという点で関心を持ったとしても、観客は決して好意的ではなかった。

ショーがオープンした当初、劇場の看板はエルヴィスがトップの位置だったが、数日後には一番下になってしまう。
マネージャーのパーカー大佐はホテルの関係者たちと話し合って、一週間で8500ドルの契約を解約して出演を打ち切ることに同意した。

ところがパーカー大佐にとっては痛恨の失敗だった仕事だったにもかかわらず、エルヴィスとバンドのメンバーたちはそのときに宝物を持ち帰ることになったのだ。
それはフレディー・ベルとベルボーイズという、フィラデルフィアのローカル・バンドが出ていた小さなクラブを訪れて、彼らの演奏する「ハウンド・ドッグ」を耳にしたのが発端だった。


フレディー・ベルとベルボーイズはビッグ・ママ・ソーントンのオリジナルから、歌詞の一部を変えて全体でもパロディ的にロックンロールのスタイルで歌っていた。
そのアプローチを気に入ったエルビスが自分たちのレパートリーに、「ハウンド・ドッグ」を新たに加えることにした。

全く無名のソングライターが書いた曲「ハートブレイク・ホテル」を取り上げて、これを見事にナンバーワン・ソングにしたときもそうだったのだが、曲を選ぶエルヴィスの判断はきわめて的確だった。
そしてバンドのメンバーやコーラスのザ・ジョーダネアーズとともに、「やつらが演奏したようにやろう」とバンドのメンバーたちに声をかけて、スタジオにおけるヘッド・アレンジで一丸となって歌に生命を吹き込み、最初にテレビでそれを披露したのである。

You ain’t nothin’ but a hound dog
Cryin’ all the time
You ain’t nothin’ but a hound dog
Cryin’ all the time
Well, you ain’t never caught a rabbit
And you ain’t no friend of mine

おまえなんか ただの女たらし
いつもうるさく吠えるだけ
おまえなんか ただの女たらし
いつもうるさく吠えるだけ
本当はウサギをつかまえることもできない
俺の友達でもない


7月2日にはニューヨークで行われたレコーディング・セッションで、エルヴィスは例によって演奏もコーラスも一斉に行う一発録音のスタイルで、自分たちが納得がいくまで30テイクにも及ぶ録音を行ったという。
それが次のシングルに採用されて「冷たくしないで」とともに両A面で発売されると 、8月18日から11週間にわたって全米1位を記録する大ヒットになった。


白人にもかかわらず黒人向けのR&Bやドゥー・ワップを書いていたリーバー&ストーラーにとって、プレスリーに「ハウンド・ドッグ」が発見されたことは大変な幸運だった。
次に彼らはエルヴィスのために切ないバラードの「ラヴィング・ユー」を書き、それが2作目の主演映画『さまよう青春』の主題歌に選ばれた。
そしてクリスマス・ソングがほしいといわれて「サンタが町に来る」を提供し、翌年には第3弾の映画『監獄ロック』の主題歌も書いて、ふたたび全米1位の大ヒットを出した。

その一方でメインの仕事にしていたR&Bを歌う黒人ヴォーカル・グループ、ザ・コースターズやドリフターズに書いた作品もヒットしている。
なかでもコースターズの「サーチン(Searchin’)」 は1957年の夏に、『ビルボード』誌のR&Bチャートにおいて12週連続で1位という大ヒットになった。

それだけでなくポップ・チャートでも最高3位まで上昇したことから、黒人のR&Bレーベルのひとつだったアトランティックが初めて、ロックンロールの分野でも成功を収めることになった。
ちなみにその時期に全米1位に7週間も君臨していたのは、エルヴィス・プレスリーの「テディ・ベア(Let Me Be YourTeddy Bear)」だった。


1957年に最も多くのヒット曲を書いたリーバー&ストーラーは、そこから1960年代にかけてソングライター及びプロデューサーとして、アメリカン・ポップスの黄金時代を牽引していくことになる。

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the SONG]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ