「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the SONG

作曲家コンクールの応募曲からスタンダードになった「翼をください」に託された夢

2019.02.22

Pocket
LINEで送る

「翼をください」が発表されたのは1970年の11月、三重県志摩郡のリゾート施設「合歓の郷」で開催されたプロの作曲家によるコンテストの会場においてであった。

これを作詞した山上路夫(写真右)は1960年代後半に作曲家のいずみたくと組んで「世界は二人のために」(佐良直美)や「夜明けのスキャット」(由紀さおり)などのヒット曲を発表していた。
歌手の個性を生かす品のいい歌詞によって新鮮なヒット曲が生まれたことから、山上には作詞の依頼が次々に舞い込むようになった。

30代前半の頃はヒットメーカーとして年間300曲ほど書いていたという山上が、かなり年下の音楽家だった村井邦彦(写真左)と一緒にアルファミュージックを設立したのは、ソング・ライティングをするなかで意気投合して、将来への夢が共有できたからだったという。

「普通で良かったですね。それまで組んできた歌謡曲の先生って恐ろしかったんだけど、クニ(村井邦彦)は全然そんな感じじゃなかったから。なんとなく普通にすうっと意気投合した感じ」


欧米のようなスタンダードになる楽曲を目指していたアルファミュージックについて、村井は目的について著書「村井邦彦のLA日記」でこう語っていた。

アルファミュージックは、僕と山上路夫が中心となって1969年に始めた音楽出版社で、作家の自由な発想で音楽制作をすることと、国際的な音楽ビジネスに参入することを目的としていた。最初に契約した作家は、当時高校生だったユーミン(荒井由実)、最初に契約した外国曲が「マイ・ウェイ」だった。


そして村井は1970年に関西で活動していたアマチュア・グループの「赤い鳥」を、ヤマハに頼まれてプロとして6月10日にシングル「人生」とアルバム『FLY WITH THE RED BIRDS』で、プロとしてデビューさせている。
世界にまで通用すると思っていた赤い鳥にかける期待は大きく、ロンドンでレコーディングされた『FLY WITH THE RED BIRDS』には、海外から一流のソングライターやミュージシャンに参加してもらった。



1969年に始まった「合歓(ねむ)ポピュラーフェスティバル」は、人気歌手を中心に動いていた日本の音楽状況のなかで、本来は音楽を創作する核となるべき作曲家に対して、独創的な作品を発表する機会を与えるという目的で始まったイベントだ。
これはヤマハの主催で、1972年まで4年間にわたって開催された。

日本から生まれた世界的なヒット曲でスタンダード・ソングになった「SUKIYAKI」、すなわち「上を向いて歩こう」を作った作曲家の中村八大が、その当時にこんな文章を書いていた。

日本の在来の歌謡曲が、歌手と歌詞を重点としてつくられたものが多いせいか、歌詞のニュアンスは非常によく出ているものの、曲としての印象があいまいで、どの曲も同じように聞こえたりするのは、やはり歌詞に重きを置きすぎるせいではないかと思う。
歌詞もメロディも重点ではあるが、メロディにはメロディなりの構成と緊張感が必要であって、それらの要素がきちんとしてないと曲としていつまでも残り得るものとはなり得ない。
日本でいまだにスタンダードな曲が少ないのは、やはり歌手と歌詞中心の作風がいまだに主流をしめているからだろう。


第1回のコンクールでは宮川泰が作・編曲した「青空のゆくえ」(作詞:安井 かずみ 歌:伊東 ゆかり)と、中村 八大が作・編曲した「涙をこえて」(作詞:かぜ耕二 歌:シングアウト)の2曲がグランプリに選ばれた。
それに続く第2回でグランプリに選ばれたのも、中村八大が作・編曲した「涙」(作詞:藤田敏雄 歌:ゆきむらいづみ)と、黒澤明監督の映画音楽で知られる佐藤勝が作・編曲した「道行」(作詞:藤田敏雄 歌:菅原洋一)の2曲だった。

赤い鳥の代表曲となる「翼をください」も村井の作品として応募していたが、作曲部門ではグランプリはおろか、入賞の5作にも選ばれなかった。
唄った赤い鳥は新人奨励賞に選ばれたのだが、村井邦彦は残念賞的な扱いの川上賞どまりに終わったのである。
このあたりは全員が素人の音楽ファンで構成されていたという、特殊な審査員のシステムによる弊害だったかもしれない。



ところが1971年2月5日に赤い鳥の第2弾シングル「竹田の子守唄」が発売になると、B面曲として収録されていた「翼をください」が、口コミで音楽ファンの間に広まって、やがて隠れた名曲として知られるようになっていった。

さらには1970年代の後半に学校教育の場で取り上げられたことから、「翼をください」は誰もが知る合唱曲の定番へと成長していく。
そして1998年にフランスで行われたFIFAワールドカップにおいて日本代表の応援歌になったことで、スタンダードをつくりたいという村井と山上の思いは、ついに叶えられたといえる。


コンテストから半世紀近い歳月を経た現在、4年間の応募作品およそ200曲のなかで、今もなお歌い継がれてスタンダードになったのは、合唱曲となった「涙をこえて」と「翼をください」の2曲だけである。
それに続くのが沢田研二のソロ・デビュー曲「君をのせて」であり、ほかには作家の野坂昭如が歌った「マリリンモンロー・ノーリターン」(作詞・作曲・編曲:桜井順)が、クレージーケンバンドなどにカヴァーされているくらいだ。

こうした厳然たる事実を前にすると、作家が自主的に歌や音楽を作ることから始まり、それをスタンダードへ育てていくことが、いかに困難であるのかということがわかってくる。

しかし、そんな状況でも村井が率いるアルファミュージックは一貫して、作家の主導で欧米のようなスタンダード曲を作りたいという夢に向かって、その後も進んでいったのである。


(注)中村八大氏の文章は、永六輔・黒柳徹子編 中村八大著「ぼく達はこの星で出会った」(講談社)からの引用です。

村井邦彦『村井邦彦のLA日記』(単行本)
リットーミュージック

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

    関連記事が見つかりません

[TAP the SONG]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ