TAP the SONG

ジョージ・マーティンにプロデュースを断られたことから始まった、ビリー・ジョエルの快進撃

2014.05.09

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1949年5月9日にニューヨークのブロンクスに生まれたビリー・ジョエルは、ピアニストでもあったドイツ系ユダヤ人の父親の影響から、4才でピアノを習い始めてクラシック音楽を学んでいたが、1964年の初頭に出会ったビートルズの音楽に大きな衝撃を受けた。

ビートルズを聴いたとたん、『これだ!』って思った。『そうさ、僕にだってできる。とにかく、やってみよう』って!

全米中継されたテレビの「エド・サリヴァン・ショー」を観て圧倒されたビリーは、将来はビートルズのようなロックミュージシャンになると決意する。

とくにジョン・レノンの目の表情に、俺は何かを感じとった。そして顔に浮かべた作り笑いで分かったんだ。奴らは、俺たちと何も変わりゃしないって。

地元のロック・バンドに加わったビリーは、バンドマン生活を続ける中でふたつのグループを経て、自身のソロも含めて3枚のアルバムをリリースした。だが信じられないような不運やトラブルが続いて、まるで日の目を見ることが出来ず、二ューヨークからロスアンゼルスへと活動拠点を移した。

ビートルズの音楽に出会ってから10年、ソロとしてのセカンド・アルバム『ピアノ・マン』を作ったビリーは、長かった下積み期間を抜け出してやっと世間に認められる。

歌ってくれよ、ピアノマン 今夜は俺たちのために
みんな聴きたい気分なんだ お前が歌うと気分が晴れるんだよ


バーやラウンジでピアノを弾いて食いつないでいた時代の経験を歌った「ピアノマン」は、大きなヒットではなかったが、次第に支持者が増えてその言葉はビリーの代名詞となっていく。


それから2枚のアルバムを制作してコンサート・ツアーをおこなったが、思ったほどの反響を得られなかったビリーは、心機一転、ニューヨークに帰って勝負作「ニューヨーク物語(Turnstiles)」を完成させる。

しかしロック評論家には受けが悪く、いい歌が揃っていたにもかかわらずセールスは低迷、チャートの100位内にも入らない惨憺たる結果に終わった。

落胆していたビリーに大きな励ましをもたらしたのは、シンガーで女優のバーブラ・ストライサンドである。彼女がカヴァーした「ニューヨークの想い(New York State Of Mind)」が批評家たちから賞賛され、それを収録したアルバムがヒットしたのだ。

しばらくするとソングライターのビリーには多額の印税が入ってきた。次のアルバムこそが本当の勝負だと、妻でマネージャーのエリザベスと相談したビリーは、超1流のプロデューサー、憧れのジョージ・マーティンに迎えることにした。

ビリーに関心を示したマーティンは、招待されたコンサートに来てくれた。ところが交渉は途中で決裂してしまう。一緒にツアーを回っていたバンドと一緒にレコーディングしたいというビリーに、マーティンが難色を示したのである。

ドラムのピート・ベストに難色を示したマーティンのおかげで、リンゴ・スターがメンバーに加わったビートルズは驚異的な成功を収めた。だがこの時、ビリーは仲間たちと音楽を作る方針を譲らなかった。

マネージャーとしてすぐに対策を講じたエリザベスは、ポール・サイモンやフィービー・スノウ、バーブラ・ストライサンドなどのプロデューサー、フィル・ラモーンとビリーを会わせるようにセットする。ここから、それまでの苦労が吹き飛ぶビリーの快進撃が始まるのである。

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