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クラッシュの新曲が生まれつつあったヴァニラ・スタジオでトシ矢嶋が聴いた「ロンドン・コーリング」

2019.07.26

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写真・トシ矢嶋

カメラマンで音楽ライターでもあるトシ矢嶋は、サディスティック・ミカ・バンドを率いてイギリス・ツアーを行った加藤和彦と出会ったことから、彼の後押しで1975年にイギリスに渡った。

そして台頭してきたパンクとニューウェイブをはじめ、UKミュージック・シーンに起こっていたリアルタイムの動きを、現地からの最新のロンドン情報として雑誌やラジオを通じて日本に発信していった。

その当時の写真とコラムをまとめた作品集『LONDON RHAPSODY』のなかには、初めてクラッシュに会ったときのエピソードが紹介されている。



<LONDON RHAPSODY公式ページ>https://www.rittor-music.co.jp/product/detail/3118311001/



1979年6月25日の夕方、ロンドンのビクトリア駅に近いピムリコと呼ばれる地区にあったリハーサル・ルームで、トシ矢嶋はザ・クラッシュのメンバー4人と初めて会うことになっていた。

コーストン・ストリートにあったそのリハーサル・ルームは、「ヴァニラ・スタジオ」という名前だったが、見るからに古びた汚い倉庫だった。
その2階にあったリハーサル・ルームにこもって、クラッシュは精力的に新曲づくりに励んでいた。

彼らは次に出すアルバムにさまざまな音楽の要素を入れて、多様性のある作品にするつもりだったのである。
だから最初から長期戦を覚悟して、予約で5カ月間もヴァニラ・スタジオを押さえていた。

しかし、このときが初対面となる矢嶋は、それまでクラッシュとはあまり接点がなかったという。

彼らがデビューした当時、周りの連中が夢中になっていたのを横目に、私自身はなぜかザ・ジャムやポリス、エルヴィス・コステロ、スペシャルズらに興味があった。しかし、忘れもしないこの日の出来事をきっかけに、彼らの素晴らしい才能を実感することになる。


テーブルには8チャンネルのミキシング・コンソールと4トラックのテープ・デッキ、ローランドのスペース・エコーが並んでいて、ミック・ジョーンズが1パイント瓶入りの牛乳を片手に持ちながら作業していた。

そして休憩に入った時、彼らは矢嶋に「今作っている新曲を聴いてほしい」と言って何曲かをプレイ・バックしてくれた。

そこで聴いたのは、生まれたての「London Calling」と「Train in Vain」。アレンジこそ完成していないものの、イントロ、メロディともキャッチーで脳裏に焼き付いた。


新曲に好印象を持った矢嶋が彼らと話をしていくうちに、レコーディング・スタジオについての話題になった。
するとミックが12月までにはウェセックス・スタジオで、本番を録音する予定だと教えてくれた。

矢嶋はウェセックスには何回も行ったことがあり、レコーディングにも立ち会った経験があったので、話がうまくつながっていった。

”私がそこは何度か行ったことあるよ。友人のクリス・トーマスが「ビル・プライスという凄腕エンジニアがいる素晴らしいスタジオだ」と言ってたよ”と返すと、今度はジョー・ストラマーが”まさに俺たちはその評判を耳にしてあそこに決めたんだ”と話に乗ってきた。


そこで矢嶋が「プロデューサーは?」と問いかけると、「ガイ・スティーヴンスだ」という答えが返ってきた。

ガイがアイランド・レコードのハウス・プロデューサーをやっていた頃のことを、矢嶋がよく知っていたのは、彼が手がけたスプーキー・トゥースやモット・ザ・フープルを、日本にいた60年代によく聴いていたからだった。



そのことをメンバーたちに話したところ、全員から「どうしてそんなに詳しいのか?」と驚かれた。
それもそのはずで、クラッシュがプロデュースを頼みたいと思ったとき、ガイはもう忘れられつつある過去の音楽人だった。

1976年にポリドールでデモテープを録音をする際に、クラッシュはガイにプロデュースを担当してもらったことがあった。
だがその時のガイはレコード会社から不当に扱われていたように見えたし、酔っ払ってスタジオに現れたので仕事にはならなかった。

それでもジョーはガイの経験や知識がクラッシュには必要だと判断し、自分の足で彼をたずねて探し回った。
やがてオックスフォード・ストリートにたむろする、落ちぶれた人たちが集う汗臭いパブで見つけ出した。

バーでビールを見つめながら落ち込んでいる連中の中から、彼を見つけたんだ。もじゃもじゃした髪だったからすぐわかったよ。


ジョーが見つけたとき、ガイの顔は傷ついた人形のようだったという。
一般には知られてないが、生まれた子供が全く耳が聞こえなかったことから、ガイはかつて伝説のプロデューサーとして名をはせていた自分に巡ってきた皮肉な人生に、人知れずもがいていたのだ。

ジョーは単刀直入に、ニューアルバムのプロデューサーをやってくれと頼んだ。

「同情なんかじゃないぜ、俺はただ悩みを打ち明けているんだ。俺たちとあんたは、お互い必要なんだ。一緒にやろうぜ」


こうした経緯があって決まったガイが残してきた仕事について、初対面の日本人カメラマンがよく知っていたのだから、クラッシュのメンバーが驚いたのも無理はない。

その半年後、ウェセックス・スタジオのエンジニアだったビル・プライスと、ガイ・スティーヴンスのプロデュースで、2枚組のアルバム『ロンドン・コーリング(London Calling)』が完成する。
これは予定よりも早い12月にまずイギリスで発売になり、1980年1月にはアメリカを始めとする世界中でも発売されて、ロック史に残る名盤となっていった。




(注)トシ矢嶋の文章は『LONDON RHAPSODY』(リットー・ミュージック発行)からの引用です。また、ジョー・ストラマーの発言はクリス・セールウィクズ (著), 大田黒 奉之 (翻訳)の「リデンプション・ソング ジョー・ストラマーの生涯」(シンコーミュージック・エンタテイメント発行)からの引用です。

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