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B面だったので制約にとらわれず48秒もある長いイントロになった五輪真弓の「恋人よ」

2019.10.25

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1972年に発表されたアルバム『五輪真弓/少女』は、シンガー・ソングライターのアルバムとしては日本で最初のロスアンゼルス録音で、しかもその当時にアルバム『TAPESTRY(つづれ織り)』が大ヒットしていたキャロル・キングがレコーディングに参加したことで話題になった。

五輪真弓はキャロル・キングやジョニ・ミッチェルなどに魅了されていたので、ロスアンゼルスでデビュー・アルバムを録音できたのは幸運だと思っていた。

プロデュースとエンジニアリングは録音場所のクリスタル・スタジオの創始者で、キャロル・キングの『ライター』のプロデューサーでもあるジョン・フィッシュバッハが担当している。
その点について五輪真弓はこう語っていた。

当時はまだ日本が侍の国という見方をされていたので、彼らにとっては大変珍しいレコーディングだったのです。
おそらく日本人シンガーソングライターのセッションという形では初めてだったのではないでしょうか。
私が緊張しているのをみて、みんなが優しく、積極的に話しかけてくれました。
コード譜だけの譜面でしたが、決めたい部分は同行したアレンジャー木田高介さんが指示をしていました。
彼は私のよきアドバイザーでもありました。


その後も1976年に4枚目のアルバム『Mayumity』がCBSフランスに絶賛されたことをきっかけに、フランスでもアルバム制作の申し出があり、フランス語によるアルバム『えとらんぜ』が発売された。
また1977年にはパリのオランピア劇場で、サルヴァトール・アダモの2週間にわたるコンサートに、ゲストとして招かれて出演した。

しかしフランス人を前にフランス語で唄っていたそのときに、「(自分は)日本人だ」と痛感することになったという。

帰国後からは大衆向けに歌謡曲テイストの歌を書くようになり、1978年に「さよならだけは言わないで」がヒットした。
このときからアレンジャーが船山基紀になったのは、シンガーソングライター路線から、ポップス寄りに方向を変えるためだった。

船山基紀は五輪真弓の楽曲には日本人のDNAに訴える要素が多分に含まれていると感じて、広い層に支持されるアレンジを目指したという。

1980年の5月、初期の頃からずっと五輪真弓の編曲をしていた木田高介が、突然の交通事故で亡くなるという悲劇が起こった。
打ちひしがれて慟哭する夫人の姿を目にして、告別式から帰ってきた五輪真弓は「恋人よ」を書き下ろした。

「恋人よ」は当初、8月21日に発売されるシングル「ジョーカー」のB面になる予定だったという。
編曲の船山基紀はCBSソニーの担当ディレクターだった中曽根皓二から、「B面はお任せする」と言われたので、スケールの大きなバラードだったこともあり、48秒もある長いイントロをつけた。

ところがレコーディングをしてみたところ、明らかにB面の出来が「すごくいい」という意見が多く、急遽A面に昇格することになってしまった。
1977年に沢田研二の「勝手にしやがれ」で日本レコード大賞に輝き、ヒット曲の職人とも言われていた船山基紀は、思わぬ展開に慌てたという。

私は面食らった。確かに、スタジオで彼女の録音を聞いていても、これはいい曲だと思ったが、A面にするならあんなに長イントロ作ることもなかったので、どうしたらいいか途方にくれた。当時、五輪さんはテレビに出て歌う機会も多かったので、なんとかテレビ用に多少は短くしてみたものの、焼け石に水。もうそのままいくしかなかったが、今考えても驚異的な長さだ。


あまりに長いイントロの曲なので、テレビやラジオでプロモーションできるかどうかという心配をよそに、「恋人よ」はテレビで披露されると、すぐに評判になってセールスが急上昇した。
そして年末の日本レコード大賞にノミネートされて、グランプリは逃したものの、金賞にも選ばれたのである。

船山はこう述べている。

しかし私にとって賞云々よりも、ジャンルを超えた日本のスタンダードナンバーに関われたことが大きな誇りである。



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