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オノ・ヨーコ27歳〜日本を代表する財閥の“お嬢様”だった彼女が経験した貧しい結婚生活、前衛芸術家としてキャリアをスタートさせた頃

2019.11.09

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「夫を追って日本に帰るべきか、ここにとどまるべきか…27歳の私は葛藤と同時にニューヨークでの成功が間近に迫っているかもしれないという予感も感じていました。」


彼女は小野英輔・磯子の長女として、東京で生まれた。
父親は日本興業銀行総裁を務めた小野英二郎の子であり、ピアニストから銀行員に転じ、彼女が生まれた時は横浜正金銀行のサンフランシスコ支店に勤務していた。
母親の祖父は安田財閥の創始者・安田善次郎だった。
安田財閥といえば、金融部門で他の財閥の追随を許さないほど潤沢な金融資本をもつ日本四大財閥の一つ。
つまり彼女は、安田財閥直系のお嬢様だった。
20歳の時には、学習院大学からアメリカのサン・ローレンス大学に編入して音楽や詩を学んだという。
23歳になった彼女は、サラ・ローレンス大学に在学中に一柳慧(いちやなぎとし/当時ジュリアード音楽院の学生)と出会って結婚をする。

「彼は私にとって初めての恋人でした。だけど両親は彼が無産階級の育ちだったから気に入らなかった。結婚を猛反対され…私は大学からも家からも遠ざかるようになりました。サン・ローレンスを退学しマンハッタンのアパートで新婚生活を始めました。」


一柳慧といえば、のちに日本音楽界に衝撃を与え“実験音楽の奇才”と呼ばれることとなる作曲家であり、ピアニストである。
青山学院高等部在学中から、ピアノにおいての非凡さを発揮しており、毎日新聞音楽コンクールでは3年連続入賞(うち2回は1位)、その後は、名門ジュリアード音楽院で研鑽(けんさん)を積む。
彼女は、そんな慧の非凡なる実験音楽に惹かれ、結婚後は自らも前衛芸術家としてのキャリアをスタートさせる。
ニューヨークを活動拠点とするフルクサス(現代のアートに大きな影響を与えた前衛芸術運動)の創始者ジョージ・マチューナス等と共に活動を行うようになった彼女は、床に置かれたキャンバスを観客が踏みつけることで完成する作品『踏まれるための絵画』(Painting To Be Stepped On)などを発表し、アーティストとして徐々に注目を集めてゆく。


「結婚を永久就職口と考えていなかった私は、やがて従順な彼に欲求不満をぶつけるようになりました。一触触発の果てしない沈黙、胸に突き刺さる不快な言葉の投げ合い、そして突然涙ながらに仲直する夜…。私たちはもはや手を繋いでマンハッタンを散歩するような愛情ある夫婦ではなかった。家庭生活と何かを創造していく人生は、互いに相容れないものだのです。」


彼女は日本を代表する財閥の“お嬢様”だったにも関わらず、自らの意思を貫き通した結婚を機に、生まれて初めて金銭的に不自由な生活を送っていた。
二人が暮らしたマンハッタンのチェンバース通りにあるロフト付きアパートの5階部分は、家具さえまばらで、暖房設備もなかったという。
家賃を払うために二人は仕事をした。
夫の慧は、カクテルバーでピアノを弾いて稼いだ。
彼女はグリニッチ・ヴィレッジある「パラドックス」というレストランでウェイトレスをしながら、自分の作品を壁に飾らせてもらっていた。
収入が足りない時は、日本協会で習字を教えたり、民謡について講義をしたり、時には事務仕事をすることもあった。
幼い頃から身につけていた英語力や教養が役に立ち、彼女は日本文化を広める役目として、協会から市の公立学校に派遣されることもあったという。

「私は学校で習字や華道の基礎を教えていました。同じ状況にいた人なら“やっただろう”と思われることはほとんどすべてやりましたね。」


それでも二人は経済的な不安につきまとわれ…結婚生活は日に日に荒波へと流されていく。
消え入りそうな残り火を煽り立てたくないという彼女を置いて、慧は日本での再出発を試み、単身ニューヨークを去って行った…


その後、彼女は観客が彼女の衣装をはさみで切り取るパフォーマンス『Cut Piece』や、言葉による作品集『Grapefruit』などを発表し、前衛芸術家としてのキャリアを着実に重ねていく。
そして、二人の結婚生活は6年で終わった。
後日、一柳慧はあるインタビューで二人の出会いについてこう語っている。

「当時は、日本からニューヨークまで来る人というのは限られていたんです。どこか大きな会社の御曹司か、僕みたいな非常に貧乏な学生か(笑)その頃、ニューヨークには日本食のお店は1、2軒しかなくて、いつの間にかみんな顔馴染みになっていたんです。当時は僕らもすごく真面目だったから、敗戦した日本はこれからどういう道を歩んだらいいのか? もっと工業を発展させて欧米と匹敵する経済力をつけるべきか?あるいはスイスのような観光立国としてやっていくべきかなんてディスカッションをしていました。その中に彼女もいたわけです。当時はまだ学生で、いわゆるアーティストではありませんでした。」


<引用元・参考文献『オノ・ヨーコという生き方 WOMAN』アラン・クレイソン(著)ロブ・ジョンソン(著)バーブ・ジュンガー(著)上原直子(翻訳)/ブルースインターアクションズ>

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