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エルヴィス、キャッシュ、パーキンス、ルイスによる奇跡のセッション「ミリオンダラー・カルテット」

2023.12.03

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世界中にロックンロールが広まったエポック・メイキングな1956年も、そろそろ終わりが近づいてきた12月4日。
いくつもの偶然が重なりあったことから、音楽史に残る奇跡のセッションがメンフィスのスタジオで起こった。

全米の若者を熱狂の渦に巻き込んでいたエルヴィス・プレスリーが、インディーズ時代を過ごしたテネシー州メンフィスにある古巣のサン・レコードを、何の予告もなく訪れたのがことの始まりだった。

インディーズ・レーベルだったサン・レコードのオーナーでプロデューサー、サム・フィリップスに見出されてレコード・デビューしたエルヴィスは、1954年から55年にかけて南部を中心にして、若者たちの間で熱狂的に受け入れられていく。
その結果、当時としては破格の3万5000ドルの移籍金で、メジャーのRCAに引きぬかれることになる。

そして1956年1月27日にRCAから発売されたシングル「ハートブレイク・ホテル(Heartbreak Hotel )」が、4月21日に初の全米チャート1位に輝いて、センセーションを巻き起こしていった。

そこから始まった快進撃によって「アイ・ウォント・ユー、アイ・ニード・ユー、アイ・ラヴ・ユー (I Want You,I Need You,I Love You)」、「ハウンド・ドッグ (Hound Dog) 」とカップリングの「冷たくしないで (Don’t Be Cruel) 」、「ラヴ・ミー・テンダー (Love Me Tender) 」と、その年にリリースしたすべてのシングル盤が全米1位を獲得する快挙を成し遂げた。

エルヴィスはわずか1年で、南部の人気者からアメリカのヒーローになっていったのだ。
ファースト・アルバムの「エルヴィス・プレスリー登場!(Elvis Presley)」も、10週連続1位を記録してRCAのポップス部門における最大のヒットになった。

このアルバムはアメリカだけでなく、イギリスやフランスの若者に大きな影響を与えた。

エルヴィスを失ったサン・レコードのサム・フィリップスが、次のブレイク・アーティストとして売り出したのは、カントリー・シンガーのカール・パーキンスだった。

1956年1月1日に発売された「ブルー・スウェード・シューズ」は、南部だけでなく全米3位にまで上昇するヒットになり、エルヴィスの「ハートブレイク・ホテル」よりも一足先に、パーキンスの名前を全米に知らしめることになった。

前の年にシングル「ヘイ・ポーター(Hey Porter )」てデビューしたジョニー・キャッシュは、12月にシングル「フォーサム・プリズン・ブルース」を発売し、カントリー・チャート4位のヒットを放っていた。
さらには4月にシングル「アイ・ウォーク・ザ・ライン(I Walk The Line )」を発売し、カントリー・チャートで初の6週連続1位を獲得している。
「アイ・ウォーク・ザ・ライン」はポップ・チャートでも20位にランクインし、キャッシュもまたエルヴィスに対抗できる存在になっていく。

その年の12月4日、サン・レコードのスタジオではパーキンスの新曲のレコーディングが行われる予定だった。
新曲を厚いサウンドにしたいと考えていたサムは、まもなくデビューさせる予定だった期待の新人、ジェリー・リー・ルイスをピアノで参加させていた。
自伝の『Cash: The Autobiography 』によると、ジョニー・キャッシュもまた午前中からカールのレコーディングを見ようと、スタジオに来ていたという。

「私はそこにいた。語られていることとは逆に、最初に到着して最後に退室した。しかし私はただレコーディングを見ていただけで、それが昼下がりまで続き、するとエルヴィスがガールフレンドと共にやって来た。
そこでセッションを中止し、我々はおしゃべりを始めた。
エルヴィスはピアノの前に座り、我々はよく知っているゴスペルを歌い始めた。
その後ビル・モンローの曲などを歌った。エルヴィスは『Blue Moon of Kentucky 』以外のモンローの曲や私の知っている曲を聴きたがった。
これまで語られていたのとはまた違い、私の声は収録されている。
マイクから遠かったし、エルヴィスのキーに合わせて普段と違った高い声で歌っていたからわかりづらいが、私は保証する。
私はそこにいたのだ」


パーキンスのレコーディング・セッションを聴いていたエルヴィスは、コントロール・ルームでフィリップスと軽く話した後で、スタジオの中に入っていった。
やがてスタジオでは自然にジャム・セッションが始まり、エルヴィスのピアノを囲んで讃美歌を歌い始めた。

アメリカの南部に生まれ4人には毎週日曜日に、讃美歌を歌って育ったという共通点があった。
娯楽を楽しむ環境も経済的な余裕もない子どもたちににとって教会は音楽を学べる場所であり、ゴスペルは最も当たり前のルーツ・ミュージックだったのだ。

もちろん4人にはゴスペル以外にも、お互いに共通する音楽=カントリーで育っていた。
2003年にキャッシュがこの世を去った時、ジェリー・リー・ルイスが寄せた言葉にはこうあった。 

ジョン(ジョニー・キャッシュ)やエルヴィス達はロカビリーで、私はロックンロールだった。
だが私たちには、皆やり方は違えど、明らかにカントリーがベースにあった。
突き詰めてしまえば、私たちは全員カントリーの人間なのだ。



4人はゴスペルからカントリー、クリスマス・ソング、トラディッショナルと、それから1時間以上も一緒に歌って楽しむことになった。
これを記事にしないともったいないと思ったフィリップスは、抜け目なく地元の新聞社に電話をかけて記者とカメラマンを呼んだ。

翌朝の新聞には「ミリオンダラー・カルテット」というタイトルで、奇跡のセッションが行われたことについての記事が掲載された。

二度と起こりえないチャンスを録音しないのはもったいないと思って、エンジニアのジャック・クレメントはセッションが終わるまでずっとテープレコーダーを回し続けた。

その日に録音されたテープが発見されたのはそれから13年後のことで、『ミリオン・ダラー・カルテット』と名付けられた貴重な音源は、能登にレコードとして発売されたほか、今では47もの音源がCD化されて聴取可能になっている。

『ザ・コンプリート・ミリオン・ダラー・カルテット』
SMJ






(このコラムは2014年11月15日に公開されたものです)

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