story_150613

TAP the STORY

蓄音機を発明したエジソンにまでたどり着いた細野晴臣、音楽を探る旅

2015.06.13

幼稚園の頃から晴臣少年は家にある大きな蓄音機で、重くて壊れやすいSPレコードを自分で回して聴くのが大好きだった。

蓄音機は母方のおじいさんだった中谷孝男のもので、晴臣少年が生まれる前から家にあった。

晴臣少年は毎日、2時間でも3時間でもレコードを聴いていた。
レコードをかけて音楽が流れてくると、身体が自然に動き出したのだ。

クラシックやジャズのレコードはおじいさんの所蔵品、アメリカ映画やドイツ映画のレコードは、映画好きのお母さんが揃えたものだった。

蓄音機

晴臣少年のおじいさんだった中谷孝男はダンディーな紳士で、いつも臙脂色の蝶ネクタイとステッキで出かけていった。

仕事は日本でも数少ないピアノの調律師で、ピアニストのマネジメントもやっていた。

1951年からは国立音楽大学で先生として教えるようになり、「ピアノの技術と歴史」という本も書いた。

ちなみに父方のおじいさんだった細野正文は、1912年に沈没した豪華客船タイタニックに乗っていて生還した、たった1人の日本人だった。

タイタニック
参照・日本人ノ恥ニナルマジキ タイタニック事故生き残りの手記

もちろん晴臣少年が生まれるよりもずっと前の出来事で、おじいさんに会ったことはない。

アメリカの映画会社に務める叔母さんが、晴臣少年の家の斜め向かいに越してきたのも幼稚園の頃だった。

叔母さんの家にはシャンソンやハリウッドの映画音楽、ブギウギなど新しくてモダンなレコードがたくさんあった。

晴臣少年は叔母さんが仕事で出かけているときも、家に遊びに行ってたくさんのレコードを聞いた。
そうやって自然にさまざまな音楽を、身体の中に取り入れたのだった。


細野晴臣は1973年の2月、埼玉県の狭山にあった米軍ハウスで初のソロアルバム「HOSONO HOUSE」を完成させた。

日本では画期的な自宅録音という方法で作り上げた。
オープニングを飾ったのは弾き語りの「ろっかばいまいべいびい」、古き良き時代へのノスタルジックな郷愁を漂わせる曲だった。

細野はレコーディングに参加したメンバーの鈴木茂・林立夫・松任谷正隆と4人で、そのままキャラメル・ママというバンドを始めることにした。

レコーディングのセッションバンドとして数多くの作品に参加したキャラメル・ママは、日本の音楽シーンに大きな変革をもたらしていく。

ラストアイム

1973年の9月21日、”はっぴいえんど解散コンサート”と銘打った『CITY―LAST TIME AROUND(ラスト・タイム・アラウンド)』が文京公会堂で開かれた。

これは、はっぴいえんどにとっては最後のステージだが、バンドとしてのキャラメル・ママが行った最初のステージとなった。

ヴォーカリストがいなかったキャラメル・ママは、演奏能力が高くてアレンジやプロデュースも出来たので、スタジオの演奏家集団として活躍した。

後々まで名作と語り継がれるアルバムの数々、南正人の『南正人 ファースト』、吉田美奈子『扉の冬』、南佳孝の『摩天楼のヒロイン』、荒井由実の『ひこうき雲』、あがた森魚の『噫無情』、雪村いづみの『スーパー・ジェネレイション』のほか、アグネス・チャンの「ポケットいっぱいの秘密」や南沙織「夏の感情」といったヒット曲なども手がけた。

キャラメル・ママの夢はアメリカのアラバマ州にあるマッスルショールズ・サウンドのように、スタジオ・ワークをまとまったリズム・セクションでやろうということだった


細野は個人でも井上陽水の「心もよう」や荒井由実の「やさしさに包まれたなら」など、スタンダード・ソングの誕生に貢献していた。

細野とキャラメル・ママは新しい時代の音楽を次々に誕生させて、最新の音楽シーンを裏で支えていたのである。

キャラメル・ママ時代の細野は、プレーヤーとして演奏の快感に向けて突っ走っていった。
しかし、実はそれと同時進行で、精神面の不安定な状態が続いていたという。

ハリウッドのノスタルジックな記憶もピークに来てて、かなり深いところまで入り込んだ。ちょうど、昔のSP盤を大量に家で発見したのもこの頃なんだ。
どんどん遡って音楽を聞いていくうちに、ぼくの生まれる前の音楽にまで行っちゃって、ついには蓄音機を発明したエジソンのところまでたどり着いちゃった。


しかし、あまりにも深く入り込んで古い時代の外国音楽を聴きこんでしまったため、「このままだと帰れなくなっちゃうんじゃないか、怖いね」と鈴木茂と話したこともあったそうだ。

さかのぼって音楽を聞いていくことが、自分の音楽のルーツの確認だったらいいんだけど、ぼくらのはそんな理性的な感じじゃなくて、ひたすら溺れ込んでいたから、ちょうど夢を見てて、もう覚めないんじゃないかっていう感じの怖れを、だんだん自覚してきたんだ。


それは母方の祖父が好きだった音楽をたどるだけでなく、もしかすると父方の祖父が聴いたかもしれない、幻の音楽を探る旅だったのかもしれない。

ちょうどその頃に、新鮮でリアルな音楽として耳に飛び込んできたのが、スライ・アンド・ストーンのアルバム『フレッシュ』だった。
これを聞いた細野は一発で意識が元に戻り、自分はミュージシャンなのだという自覚が鮮明になった。


27歳の誕生日を迎えた1974年の7月、細野はキャラメル・ママを発展させて、日本初のサウンド・プロデュース集団という意識を持ち、ティン・パン・アレーを名乗るようになる。

それで、またソロ・アルバムを作らなきゃいけないって思いたった。
カッコいいことやらなくていけないって。
それでアメリカの最新サウンドみたいなカッコいいアルバムを作ろうと思って、レコーディングを始めたのね。
エジソンまでさかのぼってしまった体験が何を意味してるのかっていうことを考えずに、突然、反動で最新のものやろうとしちゃったの。


ティン・パン・アレーの活動と平行して11月から始まったソロ・アルバムのレコーディングは、途中で難航することになったが、翌年には『トロピカル・ダンディー』が完成する。

やがてトロピカル3部作、『泰安洋行』と『はらいそ』を経て、YMOが誕生することにもなっていくのである。


(注)文中の細野晴臣の言葉は、前田 祥丈著「音楽王~細野晴臣物語」(シンコーミュージック刊)からの引用です。


TAP the POP 2周年記念特集 ミュージシャンたちの27歳~青春の終わりと人生の始まり〜

スポンサーリンク

関連アーティスト

関連するコラム

[TAP the STORY]の最新コラム

このコラムへの感想・コメントを書く

Pagetop ↑