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唄を忘れたかなりやだった27歳の西條八十は、忘れた唄を思ひだして詩人となった

2016.01.16

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唄を忘れた金糸雀(かなりや)は  うしろの山に棄てましょか
いえ、いえ、それはなりませぬ。


石鹸製造業で財を成した父親が亡くなったとき、西條家の全財産を相続したのは早稲田中学に通う17歳の西條八十だった。
3男だったにもかかわらず家督相続人に任命されたのは、長男が道楽息子でまったく信用がおけなかったからである。

そんな兄が若い芸者と駆け落ちして失踪してしまうのは明治最後の年のことで、気がつけば牛込にある土地と家屋敷の権利書、有価証券と実印がなくなっていた。

調べてみると店の経営を任せていた支配人の横領も発覚、兄の放蕩とも重なって西條家の店や住んでいた家屋敷は、すべて抵当に入っていることが発覚する。

少しでも資産を取り戻そうと大学生になっていた八十は、数ヶ月もかけて箱根や伊豆を探しまわって、ついに福島の飯坂温泉で兄を見つけ出して東京に連れ戻した。

精神的に追い詰められていた八十はいざとなったら兄を刺し殺す覚悟で、事前に短刀を買い求めてから兄との直談判に臨んだ。

「自分は未成年者であるから兄を殺しても死刑は免れるだろう。しかし刑は長くかかりそうだから母や妹のことはくれぐれも頼む」


一緒に連れて行った弟には、あらかじめそう言い伝えていた。
そんな命がけの気迫に押されたのか、兄は有価証券や権利書の入ったかばんと実印を素直に差し出した。
ところが家に帰ってきて中を確かめてみると、実印の印字面がえぐりとられていてなんの役にも立たないことが判明する。

さらには膨大な資産がもうほとんど残っていないことがわかり、たったひとつ最後に残っていた土地を売り払って負債を整理した八十は、牛込にあった広大な邸宅を出て家族とともに信濃町の小さな借家に移り住んだ。

母と弟妹あわせた一家四人の生活を、辛うじて残った金で八十が成り立たせなければならい。
八十は大学に通いながら、兜町の株式売買店に勤めることにした。
自分でも株の売買を行うようになり、少しづつ利ざやを稼いでいく日々が始まった。

早くから文学を志ざしていた八十は邸宅に住んでいた頃、早稲田大学の英文科と東京大学の国文科に籍をおいて愛蘭土文学研究会を自宅で開催していた。

アイルランド文学を愛好する同好の大学生たち、芥川龍之介や菊池寛、日夏歌之介らと語り合い、文学同人誌にはイェイツやシングなどの翻訳詩や戯曲、紹介記事などを載せてきた。

投機的な株の相場で金を稼ぐ日々の中で、八十がアイルランド文学に傾倒していったのは、ケルト文化の素朴で民俗的なロマンチシズムに惹かれたせいかもしれない。

大正4年に「シング論」を書いて早稲田大学を卒業した八十は、翻訳の仕事を始めてまもなく、親切にしてもらったことで知り合った新橋の小料理屋の娘と結婚する。

そして庶民の家庭で育った素朴で善良そのもののような妻とふたりで、天ぷら屋を始めたのはいいが商売繁盛とまではいかず苦労が続く。

ある冬の寒い夜、貧しいハッピ姿の職人が夕刊売りの少年を連れてきて、「おい、腹が空くとよけい寒いぞ、喰いな」と声をかけて、破れた半天の腹掛けからわずかな金をつかみ出して一杯20銭の天丼をごちそうしている様子を見た。
そうした体験などが後年になって、庶民に寄りそった流行歌を作る下地となっていく。

天ぷら屋をたたんだ八十が雑誌「英語之日本」を一人で執筆・編集していた頃、童話童謡の雑誌を新しく創刊した鈴木三重吉が」訪ねてきた。

この頃の子供のうたっている唱歌は、大部分功利的な目的をもって作られた散文的で無味乾燥な歌ばかりであって寒心に堪えない。
私たちはもっと芸術味の豊かな、即ち子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないこれを優しく育むやうな歌と曲とをかれらに与えてやりたい。
で、私の雑誌ではかうした歌に、「童話」に対する「童謡」という名を附けて載せてゆくつもりだ、と。


その雑誌こそが明治時代の教訓的な「学校唱歌」から子供の歌を解き放ち、自由な「創作童謡」へと変える画期的な雑誌『赤い鳥』だった。

赤い鳥

創作の依頼を受けた八十は、どうすれば「芸術的な子供の歌」を作れるかと、生まれて5カ月の長女を抱いて上野の東照宮の境内を散策していて、幼いころのクリスマスの聖なる夜の光景を思い出した。

教会の堂内に華やかに灯りがともるなかに、ひとつだけポツンと消えている電燈。
その次の年にも、やはり消えたままだった電燈。

八十は小鳥たちがさえずっているなかで、自分だけがうたうべき唄をわすれた小鳥のように感じた。

唄を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょか
いえいえそれは可哀相。

唄を忘れた金糸雀は 背戸(せど)の小藪に埋めましょか
いえ、いえ、それはなりませぬ。


文学と詩作に専念したくともそれは叶わず、家族のために不本意ながら金儲けに走っている自分の行動を、いつもどこかで恥じていたし、心のなかで自責の声が聞こえていた。

そうではないか?
詩人たらんと志して入学した大学の文学研究も、わたしは不幸な出来事から抛棄(ほうき)した。
そうして、何よりもまず老母や弟妹の生活を支えるために、兜町通いをしたり、図書出版に従事したりしている。
わたしはまさに『歌を忘れたかなりや』である。


子どものために純粋な童謡を書こうとした八十は、その歌詞に自分の現実生活の苦悶を滲ませつつも、かすかな希望を託す。

唄を忘れた金糸雀は 象牙の船に銀の櫂(かい)、 
月夜の海に浮かべれば 忘れた唄を思ひだす。


1918年(大正7年)の『赤い鳥』11月号に掲載された「かなりあ」は評判になり、『赤い鳥』の専属作曲家だった成田為三が曲を付けて、翌年の5月号に楽譜と一緒に「かなりや」として掲載された。
「我国最初の新芸術童謡」と名付けられたその唄は、日本全国で広くうたわれていったのである。

最初の詩集「砂金」を自費出版で発売たのも同じ年の6月で、27歳にして西條八十は詩人として認められることになった。
詩集は次々に重版を重ねて象徴派詩人として名声を高めた八十は母校の早稲田大学で講師となり、やがてフランスへ留学してソルボンヌ大学で2年間を過ごす。

帰国後は早大仏文学科教授に迎えられたが、そこからは学者として、詩人として、そして何よりも歌謡曲の作詞家として大活躍した。

21世紀にまで歌い継がれている「蘇州夜曲」を筆頭に、戦後を象徴する明るさと躍動感の「青い山脈」、戦災孤児の悲しみを重ねた「越後獅子の唄」など、数多くのヒット曲を生み出した。

しかしそれらの原点となった「かなりや」は今でも演奏会や合唱などで歌われてはいるが、使命を果たしたかのように次第に忘れられつつある。









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