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唄を忘れたかなりやだった27歳の西條八十は、忘れた唄を思ひだして詩人となった

2023.08.11

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地主の息子で石鹸製造業や販売でも財を成した父親が亡くなったとき、西條家の全財産を相続したのは早稲田中学に通う学生だった17歳の西條八十だった。
三男だったにもかかわらず家督相続人に任命されたのは、長男がまったく信用のおけない道楽息子であったからだ。

そんな兄が案の定、若い芸者と駆け落ちして失踪してしまったのは明治最後の年のことで、気がつけば牛込区にある土地と家屋敷の権利書、有価証券と実印がすべてなくなっていた。
調べてみると店の経営を任せていた支配人の横領なども発覚し、兄の放蕩とも重なって西條家の店や住んでいた家屋敷まで、すべて借金の抵当に入っていることが判明した。

少しでも資産を取り戻そうと大学生になっていた八十は箱根や伊豆を数ヶ月もかけて、自ら探しまわってついに兄を福島の飯坂温泉で見つけ出した。
精神的に追い詰められていた八十は、事前に短刀を買い求めて懐に忍ばせ、いざとなったら兄を刺し殺す覚悟で直談判の席に臨んだ。
一緒に連れて行った弟にはもしもの時のために、事前に覚悟のほどを言い伝えておいた。

「自分は未成年者であるから兄を殺しても死刑は免れるだろう。しかし刑は長くかかりそうだから母や妹のことはくれぐれも頼む」


そんな命がけの気迫に押されたのか、兄は有価証券や権利書の入ったカバンと実印を素直に差し出してきた。
ところが家に帰ってきてそれらを確かめてみると、実印の印字面がえぐりとられていて、なんの役にも立たないことが判明する。

さらには膨大な資産がほとんど残っていないこともわかり、たったひとつ最後に残っていた土地を売り払って負債を整理した八十は、牛込の邸宅を出て家族とともに信濃町の小さな借家に移り住んだ。

母と弟妹あわせた一家四人の生活を、辛うじて残った金を元手に成り立たせなければならい。
八十が大学に通いながら兜町の株式売買店に勤めることにしたのは、自分でも株の売買を行って利ざやを稼ぐためでもあった。


早くから文学を志ざしていた八十は牛込の邸宅に住んでいた頃、早稲田大学の英文科と東京大学の国文科に籍をおき、自宅で「愛蘭土文学研究会」を開催していた。
投機的な株の相場で金を稼がねばならない日々の中で、八十がアイルランド文学に傾倒していったのは、素朴で民俗的なケルト文化のロマンチシズムに惹かれたせいかもしれない。

アイルランドの文学を愛好する同好の学生たち、芥川龍之介や菊池寛、日夏歌之介らと語り合い、イェイツやシングなどの翻訳詩や戯曲、紹介記事などを文学同人誌に載せている。
八十は大正4年に「シング論」を書いて早稲田大学を卒業した。

その後は翻訳の仕事を始めていたのだが、偶然に親切にしてもらったことから知り合った新橋の小料理屋の娘と結婚する。
そして庶民の家庭で育った素朴で善良そのもののような妻とふたり、天ぷら屋を始めたまでは良かったが、商売繁盛とまではいかずに苦労が続いた。

ある冬の寒い夜、貧しいハッピ姿の職人が夕刊売りの少年を連れてきて、「おい、腹が空くとよけい寒いぞ、喰いな」と声をかけているのを見かけた。
破れた半天の腹掛けからわずかな金をつかみ出して、職人は一杯20銭の天丼を少年にごちそうしていたのだった。

そうした体験などが後年になって、庶民に寄りそった流行歌を作る下地となっていくことになる。

天ぷら屋をたたんだ八十は雑誌「英語之日本」を一人で執筆・編集する仕事を行っていたが、そこに新しく童話と童謡の雑誌を創刊した鈴木三重吉が訪ねてきた。

この頃の子供のうたっている唱歌は、大部分功利的な目的をもって作られた散文的で無味乾燥な歌ばかりであって寒心に堪えない。
私たちはもっと芸術味の豊かな、即ち子供等の美しい空想や純な情緒を傷つけないこれを優しく育むやうな歌と曲とをかれらに与えてやりたい。
で、私の雑誌ではかうした歌に、「童話」に対する「童謡」という名を附けて載せてゆくつもりだ、と。


その雑誌こそが明治時代の教訓的な「学校唱歌」から子供の歌を解き放ち、自由な「創作童謡」へと変える画期的な雑誌の『赤い鳥』だった。

創作の依頼を受けた八十は、どうすれば「芸術的な子供の歌」を作れるかと、生まれて5カ月の長女を抱いて上野の東照宮の境内を散策していて、幼いころに通っていた協会の聖なる夜の光景を思い出す。

クリスマスの教会で堂内に華やかに灯りがともるなかに、ひとつだけポツンと消えている電燈。
その次の年にも、やはり消えたままだったその電燈。
小鳥たちがさえずっている境内のなかで、八十は自分がうたうべき唄をわすれた小鳥のように感じていた。

唄を忘れたカナリヤは 柳の鞭でぶちましょか
いえいえそれは可哀相。

唄を忘れた金糸雀は 背戸(せど)の小藪に埋めましょか
いえ、いえ、それはなりませぬ。


文学と詩作に専念したくとも生活のためにそれが叶わず、不本意ながら金儲けに走っている自分の行動を心のなかで、いつも恥じていたのだ。
こんな自責の声がいつもどこかで聞こえていた。

そうではないか?
詩人たらんと志して入学した大学の文学研究も、わたしは不幸な出来事から抛棄(ほうき)した。
そうして、何よりもまず老母や弟妹の生活を支えるために、兜町通いをしたり、図書出版に従事したりしている。
わたしはまさに『歌を忘れたかなりや』である。


子どものために純粋な童謡を書こうとした八十は、自分の現実生活の苦悶を滲ませつつもかすかな希望を託した「かなりあ」を完成させた。

唄を忘れた金糸雀は 象牙の船に銀の櫂(かい)、 
月夜の海に浮かべれば 忘れた唄を思ひだす。


「かなりあ」は1918年(大正7年)の『赤い鳥』11月号に掲載されて評判になり、翌年の5月号に『赤い鳥』の専属作曲家だった成田為三が曲を付けて、楽譜と一緒に「かなりや」と改題してふたたび掲載された。
その唄は「我国最初の新芸術童謡」と名付けられて、『赤い鳥』の楽譜を通じて日本全国で広くうたわれていった。



同じ頃、大正7年6月に西條八十は最初の詩集「砂金」を自費出版で発売し、27歳にして詩人としてもおおいに認められることになる。
次々に重版を重ねた「砂金」によってて、象徴派詩人として名声が高まったのだ。
まもなく母校の早稲田大学で講師の職を得た八十は、やがてフランスへの留学を果たしてソルボンヌ大学で2年間を過ごした。

帰国後は早大仏文学科教授に迎えられたが、そこからは学者としても詩人としても、そして低俗といわれた歌謡曲の作詞家として活躍する。

21世紀にまで歌い継がれている戦前の「蘇州夜曲」、盆踊りの定番として今も親しまれている「東京音頭」、望郷ソングのスタンダードである「誰か故郷を想わざる」、戦後を象徴する明るさと躍動感に満ちた「青い山脈」、戦災孤児の悲しみを重ねた美空ひばりの「越後獅子の唄」、愛妻への鎮魂歌でもあった「王将」など、数多くのヒット曲を生み出した。








(注)本コラムは2016年1月16日に初公開されました。

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