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レイ・チャールズ27歳〜年間300本もの公演ツアーとドラッグの日々の中で、手に入れたものと失ったもの

2017.06.10

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1957年──レイ・チャールズはこの年に27歳を迎えてアトランティック・レコードからデビューアルバムをリリースする。
自身の名前をタイトルにしたそのアルバムには、後にビートルズやエディ・コクランを筆頭に多くのアーティストたちがこぞってカヴァーした名曲「Hallelujah, I Love Her So」も収録されていた。
当時、彼は年間300本もの公演ツアーをこなしながらレコーディングを行っていた。

「レコーディングセッションは、メインの仕事、つまりロードに出てライヴをする仕事の合間をみて縫うようにして行っていたよ。決して止まることはなかった。リラックスするとか、休みを取るなどということは考えたこともなかったよ。」

そんな多忙な日々を送っていたため、彼は当時テキサス州のダラスで暮していた妻や子供とほとんど一緒に過ごすことはなかった。
街から街への移動はどんどん忙しくなり、ライヴの日程はさらに過密になっていった。
そんな生活の中で、彼は25歳から30歳までの間に毎年キャデラックを買い替えていたという。
6歳の時に緑内障を患って盲目となった彼だったが、自分で運転することはなくても“車を持つこと”が大好きだった。
当時のことを振り返って、彼は愛車についてこんなことを語っている。

「今までさまざまな車に乗ったよ。ギアチェンジの感触が好きでコルヴェットにも乗ったよ。それぞれ時期は違ったけど、オールズモビル、メルセデスベンツ、フォルクスワーゲンにも乗ったよ。そんな中、キャデラック以上に私を熱狂させた車はなかったよ。
あの長い車体のラインと大きなテールフィンが大好きだった。あの頃、キャデラックこそが“持つべき車”だったんだ。年間10万マイル(16万km)も走る私にとっては、車が頑丈であることは必須条件だったんだよ。」


1956年、26歳の頃に彼は車好きが高じてとんでもない車を購入する。
2台のシボレーをつなぎ合わせてリムジンのように車体を長くし、4ドアで座席が4列ある車を特注で作らせたという。
バンド仲間たちは、その車体の長い車をウィンナーソーセージに喩えて“ウィンナ”と呼んだ。
当時、彼らはレイが所有するキャデラックと“ウィンナ”に乗って街から街へと車内で馬鹿騒ぎをしながら走り続けていた。

──仕事は順風満帆だった。
そんな中、彼は毎日ヘロインを打っていたという。
そうしながら全力でステージをこなし、休みなく曲を書いていた。
頭の中にメロディーやコード進行が思い浮かぶ。
点字の楽譜は使わない。
バンドメンバーの担当楽器ごとに音譜を読み上げるスタイルで曲を作りあげてゆく。
彼は当時のことをこう振り返る。

「私とドラッグとの関わりは特殊なものだった。私はそれが“毒”だと知っていた。ドッラッグをやれば過剰摂取で死なくても、頭が狂ったり瀕死の状態になることは理解していたよ。」

彼は稼ぎがよくなりだすと同時に、高級車を買うような感覚でヘロインを入手するようになったという。
稼ぎが少ない時は、買う量も減らした。
彼はドラッグに対して抑制を効かせることができたのだ。

「問題はドラッグではなかったんだ。金だ。金がある時はそれなりに使ったし、なければ使わなかったよ。手元に金さえあれば毎日打っていたよ。つまりドラッグをやる頻度は当時の経済的余裕と比例していたんだ。」

多くの人間はヘロインに依存するようになり、自分ではどうしようもなくなるまでやってしまい、身体も心も蝕まれて悲惨で短い生涯を終える。
しかし、彼はそうならなかった。
当時、彼は自分のドラッグ癖を周囲に隠さなかった。
もちろん誇示していたわけでもない。
ヘロインを使用していると身体を掻きむしる癖が出るという。
彼は身体が痒ければ掻いていた。
当然ながら、彼は自分がピアノを弾いたり、話しをしたり、歩いたりする姿を見ることはできない。
その演奏スタイルと同じく、自由に、そして欲するがままに身体を動かす。
他人と自分を見比べることはない。
そんな彼の“見えない目”は、時に周りの人間を混乱させたという。

「信じられない人もいるようだが、私は自分で髭を剃るんだよ。しかも普通のカミソリを使ってね。切れた電球を自分で交換したり、電灯にスイッチをいじったり、テレビやステレオ機器の修理もできるんだから、麻薬を静脈に打つことくらいは朝飯前だ。こう言えばわかりやすいだろうか?私は針に糸を通すことだってできるんだよ。」

ある時、誰かが彼にこんな質問をしたという。
どうやってその麻薬がちゃんとしたものかどうか確認しているのか?と。
彼は笑いながらこう答えた。

「目が見える連中は自分がどんなヘロインを打って、どんなマリファナを吸っているのか知っているのだろうか?十中八九彼らは売人を信じているんだよ。買う時に顕微鏡を持ち出していちいち検査するジャンキーが何処にいる?人が麻薬をやる時は“盲目的”にやっているものなのさ(笑)」

1958年──彼が27歳の時に二人目の息子デイヴィッドが生まれた。
彼と共に出産を喜びながらも、妻デラ・ビーは人知れず傷ついていた…。
その当時のことを振り返って、彼はこんな反省の言葉を残している。

「私がドラッグを打つことでもっとも傷ついたのは、私の身体などではなく妻だった。そのことだけは後悔している。だがそれでもあの頃の私はドラッグをやめようとしなかった。ドラッグのこと、そして旅先で知り合う女のことだけは、ずっと彼女に隠そうとしていた。彼女はそれを知っていながらも口には出さなかった。妻は家庭での生活と息子たちを心から大切にしていた女性だった…。」

次男デイヴィッドが生まれてから数ヶ月後に、彼はロサンゼルスに家を購入する。
しかし、彼の多忙なツアー生活やドラッグとの関係に変化はなかった。
妻デラ・ビーはこの引っ越しを喜びながらも…それぞれ別の人生を歩むことを決意していた。
“針に糸を通すことだってできる”と言っていた彼も、そのことを誰よりもわかっていた。
その翌年、彼はABCレコードと契約を交わし、自身初のミリオンセラーとなる名曲「What’d I Say」を大ヒットさせてさらに大きな成功を手にしてゆく…。


<引用元・参考文献:『我が心のジョージア〜レイ・チャールズ物語〜』レイ・チャールズ&デイヴィッド・リッツ:共著 吉岡正晴:訳・監修(戎光祥出版)>













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