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黒柳徹子~私達は手をとりあって、よくわからない〈テレビ〉という暗闇の中を進んでいった

2016.06.04

黒柳徹子は小学校のときからバレリーナ、幼稚園の保母さん、従軍看護婦、スパイ、競馬の騎手と、なりたいものがいろいろあったが、香蘭女学校を卒業後にはオペラ歌手になるべく東洋音楽大学声楽科へ入学した。

しかしどうにもうまくいかなくて、「そうだ、私はそのうち結婚してお母さんになる。その時、料理や洗濯や掃除が上手にできるお母さんはたくさんいるだろうから、私は自分の子どもに絵本を読んだり、人形劇をやってあげられるお母さんになろう」と決めたという。

どこに行ったらそういうことを教えてくれるのかと母に訊ねると、「新聞に載っているんじゃない?」と言われたので見ると、本当にNHKの放送劇団募集の記事があったので応募する。

しかし筆記試験では25問中5問しかできず、課題のパントマイムもできなかった。
にもかかわらず、400倍もの競争を突破して合格したのである。
それは養成所の先生たちが、「あまりにもなにもできなかった」ことに可能性を見出して下した判断によるものだった。

「テレビジョンという新しい世界の俳優には、あなたみたいな何もできない、何も知らない、言い換えると、無色透明な人が向いているかもしれない。一人くらい、そういう合格者がいてもいいだろうと思って、あなたは受かったんです」


ラジオでも舞台でも映画でもない、テレビのための俳優をつくるための養成所に入った1953年の2月1日から、NHK東京テレビジョンが本放送を開始した。
まだラジオ全盛期だった頃に始まったテレビはわずか866台、1台につき5人ずつ観ていたとしても、5,000人にも満たない状態でのスタートだった。

それからちょうど1年後の1954年4月、黒柳徹子はラジオの『ヤン坊 ニン坊 トン坊』のトン坊の声で主役を務めて、そこから人気が出て注目される。

続いてテレビでも人形劇『チロリン村とくるみの木』や、幼児教育番組『おかあさんといっしょ』のコーナーとして始まった『ブーフーウー』などで、主に声優として活躍し始めていく。

1960年に入ると日曜日の夜8時から始まった日本初のカラー放送によるバラエティ番組、四人のホスト(フランキー堺、ペギー葉山、越路吹雪、森繁久弥)が週替わりで登場する『パノラマ劇場』で、レギュラー出演者となって渥美清とともにコメディで認められた。

黒柳徹子の才能が一気に開花するのは1961年の春、なんと一挙に毎週3本のレギュラーが決まった。
子供向けの『魔法のじゅうたん』が 水曜日18時、音楽バラエティ『夢で逢いましょう』 が土曜日22時、そして日曜日は20時からは生放送のドラマ『若い季節』である。

しかもそのうちの『夢で逢いましょう』 と『若い季節』が、一世を風靡する人気番組へと成長していった。
トットちゃんこと黒柳徹子はこのとき27歳、ここからの1年は彼女にとっても画期的な年となった。

若い季節

東京の化粧品会社を舞台にした『若い季節』はバラエティ色の強い連続ドラマで、銀座をタイトルバックにザ・ピーナツの主題歌が流れるオープニングから、都会的なセンスを感じさせて全国各地のテレビ視聴者には魅力的に映った。

そのうえ〝人海戦術〟といわれたほどたくさんのレギュラー出演者、それに準レギュラーもいて、さらにゲストとして人気俳優からタレント、コメディアン、スポーツ選手が出演した。



ハナ肇とクレイジー・キャッツ、ダニー飯田とパラダイス・キング、坂本九、ジェリー藤尾、スパーク3人娘(中尾ミエ、伊東ゆかり、園まり)といった歌手たちと、淡路恵子、沢村貞子、有島一郎、三木のり平、森光子、岡田真澄、古今亭志ん朝と、NHKならではの豪華なキャスティングだ。

その中で人気が急上昇したのが、テレビに慣れて頭角を現してきた浅草の軽演劇出身の渥美清と、頭の回転と舌が一緒に動いて声もよく通る黒柳徹子だった。

『若い季節』や『夢であいましょう』は生放送でしたから、1時間分の台詞を覚えて、それを生でやるっていうのは出演者やスタッフ、みんなで力を合わせないと無理ですよね。
だから本当にみんな仲良しでしたね。
『若い季節』には、エノケンさん(榎本謙一)から渥美清さん、九ちゃん(坂本九)、そしてクレイジーキャッツまで、色んな世代の方が出演していて、本当に賑やかで毎日がお祭りみたいでしたよ。
当日まで台本が出来上がらず、現場に行ってから一気に覚えて、割り勘でご飯食べて(笑)、それから本番。
若かったと思いますね。
でも、撮り直しが出来ないからこそ「やらなきゃ!」という情熱がありましたね。(黒柳徹子)


黒柳徹子は渥美清とともに、音楽バラエティ『夢であいましょう』にもレギュラー出演して、コントや詩の朗読で存在感を発揮した。

土曜日の夜に『夢であいましょう』があり、日曜日のゴールデン・タイムには『若い季節』という流れになる。
毎週この二人を観ていれば、自然に馴染みになってしまうのも当然だ。

その頃に浅草で人気が出始めていた伊東四朗が、「私たちコメディアンが当時憧れていたのは『夢であいましょう』。結局出られなかったけれど、出ている人が本当にうらやましかったですね」と振り返る。

まだ無名の修業時代だった萩本欽一は、「仲間たちの間でオシャレでカッコイイ番組だと評判でした。こういう番組を見ないと時代に置いて行かれると、1、2回見ました。とても優れた番組でショックを受け、自分が意味のない修行をしているんじゃないかと思ったほどでした」と語っている。

『夢であいましょう』(61~66年)にレギュラー出演したまま、黒柳徹子は最後の1年で司会も引き受けた。
番組の構成を担当した永六輔との、こんな会話が残っている。

永 :「夢であいましょう」で出演者、スタッフ含め、自宅にテレビがあったのは坂本九だけ。
黒柳:テレビが始まったときは、みんながスタートラインに立ったわけだから、言葉は変だけど「戦友」としか言いようのない気分です。仲間意識は強かったです。
永 :番組作りでは、アメリカに学んだ点もあります。米軍の知り合いやアーニー・パイル(東京宝塚劇場を米軍が接収した劇場)がバラエティー、レビューをやっていて楽しさを学びました。「夢で~」には、中村八大という天才的なメロディーメーカーがいましたから、音楽をいかしました。
黒柳:昔のカメラはクローズアップの時、近寄らなければ撮れなかった。これ以上、カメラが寄れないとなると、私の方から寄っていく(笑い)。だから、一心同体にならないと撮れない。生放送ですから俳優は全部せりふを覚えて、助け合いました。


永六輔と中村八大が作る「今月のうた」のコーナーからは、たくさんの新しい歌が生まれてヒットした。

「上を向いて歩こう」、「遠くへ行きたい」、「おさななじみ」、「こんにちは赤ちゃん」など、老若男女が口ずさめる口語体の歌詞、都会的なメロディやサウンドに特徴があった。
それから数年で、紅白歌合戦の出演者はがらりと入れ変わり、中村八大に続いて宮川泰やいずみたくなど、ジャズ出身の作曲家が活躍した。

音楽がぐっと私たちの日常に近づいたと思います。
実は、その少し前、昭和33年(1958年)に最年少でNHK紅白歌合戦の司会をしたんですね。
その時の出演者には、赤坂小梅さんなど丸髷を結った方もいらっしゃったんです。(黒柳)


『話し上手、聞き上手はいるが、対話の才能では日本で初めての人』と言われる黒柳徹子、その類まれなる才能はテレビというメディアとのマッチングの良さを抜きには語れない。

みんなが手探りの状態で、どうやれば正解なのか誰もわかっていない時代だった。
しかもほとんどが生放送だったので、真剣勝負のようにありったけの集中力で立ち向かっていくしかない。

私達は、手をとりあって、よくわからない〈テレビ〉という暗闇の中を進んでいった。
だから、その頃一緒だった人は、みんな、同級生というか、同志のようなものだ。


やがて1964年の東京オリンピックを迎えて、黒柳徹子はテレビの黄金時代が始まると時代の最先端に立っていたのである。


〈参考文献〉黒柳徹子 著「トットチャンネル」新潮社、小林信彦 著「テレビの黄金時代」文春文庫

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