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阿久悠の27歳~僕が作詞家になれたのはビートルズのおかげです

2023.08.01

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僕が作詞家になれたのはビートルズのおかげです。
ビートルズの出現で60年代半ばにエレキギターの楽器革命が起こりました。
それまで楽器はプロでなければ扱えなかったのが、エレキブームでギターが普及して誰でも扱えるようになった。
やがてGS(グループサウンズ)の一大旋風が起こると、彼らの曲作りに参加するかたちで、フリーランスの作詞家や作曲家が続々と参入してきました。
(『阿久悠 命の詩』所収「歌謡曲の向こうに昭和という時代が見える」より)


阿久悠が最初に作詞の仕事をしたのは28歳の時だった。
当時は広告代理店に勤めるかたわら、会社には内緒で放送作家の仕事をしていた時期にあたる。

「日劇ウェスタンカーニバル」が全盛だった頃から活躍していたスパイダースにとって、「フリフリ」は初めてのヴォーカル入りオリジナル作品だ。
レコードが発売されたのは1965年5月10日、そしてB面の「モンキー・ダンス」が阿久悠の作詞家としてのデビュー作になった。

モンキー・ダンスフリフリ 

1959年4月、明治大学を卒業した深田公之(ひろゆき)は、中規模の広告代理店「宣弘社」に入社した。
宣弘社はテレビの人気番組「月光仮面」を制作していたので、映画が好きで脚本を書きたかった深田にとっては向いている会社だった。

深田はそこでサラリーマンとして働きながら、仕事に慣れてくるとアルバイトとして放送用の台本を書き始めた。
最初に評価されることになった作品は、人気女優の吉永小百合が主演するニッポン放送のラジオドラマ、『お父さん!大好き』だった。

阿久悠という名前をペンネームに使うようになったのは、その番組に途中から関わりだした頃のことだ。
1964年3月一杯で『お父さん!大好き』が終了した時、阿久悠は27歳になっていた。

広告代理店でのサラリーマン生活と、ラジオやテレビの放送台本を書く放送作家、どちらも順調で忙しかった。
眠る時間を削っての二重生活を続けながら、阿久悠はこの年から日本テレビを通じて、音楽業界との関わりを深めてゆくことになる。

当時は日本テレビに勤務しているんじゃないかと思うほど、たくさんのレギュラー番組を抱えていたという。
そのなかに1965年に10月にスタートした『世界へ飛び出せ!ニューエレキサウンド』という、バンドのコンテスト番組があった。

優勝チームにビートルズを生んだリバプールで、レコーディングさせるという触れ込みだった。
番組の内容は「アマチュアによるコンテスト」、「ザ・スパイダースによるニューサウンドの紹介」、「ニューステップの紹介」、「ゲスト歌手によるポピュラーヒットパレード」という構成になっていた。

レギュラー出演者のスパイダースのために、阿久悠が自ら歌詞を書くようになったのは、番組を盛り上げるための必要に迫られたからだった。
「リトル・ロビー 」「ロビー・ロビー」「 コケコッコー」「 ミスター・モンキー 」といった曲が、番組のなかで披露された。
だが「モンキー・ダンス」もふくめて、阿久悠はそれらは放送作家の仕事の延長だと見なしている。

ビートルズが6月29日に来日して武道館で公演することが正式に発表されたのは、1966年4月27日に出た読売新聞の社告だった。
読売グループの仕切りだったから、当然、日本テレビが何らかの形で番組として関わることが予想された。

阿久悠はビートルズの来日を、日本の音楽界にとって特別な”あの日”になると意識していた。
そしてビートルズの特別番組が日本テレビで製作されるだろうし、「ぼくにまわって来るに違いない、いや、まわって来てほしいものだ」と思っていたという。

1966年5月には宣弘社を退社し、天下晴れてフリーの道を選んだ。
ところが阿久悠には仕事がまわって来なかった。
そのためにやむを得ず、重要さだけを認識しながら、遠目から見ることになった。

ザ・ビートルズの来日は、少し大仰な言い方をするなら、黒船だった。そのくらいの衝撃を与えた。国家の威信に関わるというものではないが、彼らの来日によって、文化的閉鎖性を自覚し、その自覚によって、一気に自らを開放したことは確かだった。


そしてビートルズが来日したことをきっかけに、嵐のようなGSブームが起こった。
阿久悠はビートルズが来日したことから起こった現象を、「日本の音楽のビッグバン」と呼んでいる。

GSブームはそれ以後の歌謡曲を8ビートにし、大きな転換期を作り出した。
そのことでレコード会社の専属作家たちが淘汰されて、若くて才能あるソングライターたちがメジャーに押し上げられたのだ。

作詞で言えば橋本淳、なかにし礼、山上路夫、安井かずみ、作曲で言えばすぎやまこういち、鈴木邦彦、筒美京平、井上忠夫、村井邦彦、ほか新しいフリーの作家たちが輩出された。

その結果、1969年を境にして戦前から長く続いてきた作詞家と作曲家の専属制が、なし崩し的に崩壊してしまうことになった。

阿久悠が作詞家としての第一号作品だと自分で認めているのは、ホリプロから注文を受けて書いたモップスのデビュー曲「朝まで待てない」だ。
1967年11月に発売された「朝まで待てない」がある程度のヒットになったことで、ブームを迎えていたGSを中心に作詞の仕事が増えていった。


待望の大ヒット曲が誕生したのは、1970年に入ってすぐのことである。
長いブランクからカムバックした森山加代子の「白い蝶のサンバ」が、舌をかみそうな早口言葉がユニークだと話題になった。

大ヒット曲を放った阿久悠のもとに仕事が殺到し始めた。
7年間のサラリーマン生活を経由して波に乗った、自称「遅れてきた作詞家」はそこから一気に時代の寵児となっていく。

(注)このコラムは2016年7月16日に公開されました。

〈参照コラム・「阿久悠は新時代の旗手になる!」と、ひとりの新聞記者の心を昂らせた歌








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