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27歳で引退を決めて日本を離れようと考えていた藤圭子〈前編〉「ポリープを切り取ることで、私の歌の命まで切り取ることになった」

2016.10.29

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1969年9月に「新宿の女」でデビューした藤圭子は、演歌で日本語のブルースとロックを体現していたシンガーだった。

ファースト・アルバム『新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて』は1970年3月に発売されると、まもなくオリコンのアルバムチャートで1位を記録した。
そこに収録されていた「圭子の夢は夜ひらく」が若者たちから大きな支持を集めたことで、日本では異例となるアルバムからのシングル・カットが行なわれた。

4月25日に発売された「圭子の夢は夜ひらく」は、シングルチャートの1位にあったセカンド・シングル「女のブルース」の後を受けて、10週間連続でヒットチャートの1位になった。

アルバムもまた3月末から8月初めまで20週間にわたって1位をキープするベストセラーとなり、藤圭子は一世を風靡するスター歌手になった。

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しかし小さな個人プロダクションに所属していた事情で、芸能界という特別なムラ社会で酷使され続けたことによって、藤圭子はデビューから1年もしないうちに輝きを失い始めていく。

それから9年後、藤圭子は27歳のときに歌手を引退する意志を固めている。

引退にまで追い込まれていく分岐点となったのは、人気が絶頂となっていた1970年の夏に発売した「命預けます」という歌だった。

  「命預けます」 作詞・作曲:石坂まさを

  命預けます
  流れ流れて 東京は
  夜の新宿 花園で
  やっと開いた 花一つ
  こんな女でよかったら
  命預けます

  命預けます
  嘘もつきます 生きるため
  酒も飲みます 生きるため
  すねるつもりは ないけれど
  こんな女でよかったら
  命預けます


マネージャーであり事務所の社長でもあった育ての親、石坂まさをのヒット曲を生み出そうという情熱が、いささか過剰だったのかもしれない。
あるいは3曲連続のヒットチャート1位を狙っていた制作者たちの野心が、あまりに藤圭子ブームを意識しすぎたのかもしれない。

何れにせよファースト・アルバムから感じられた、藤圭子にしかない独特の「歌う力」が、その曲のヴォーカルからは失われていたのである。

デビュー時に彼女が持っていたピュアな精神、すなわち実像と虚像のはざまにあって一途に歌うという、祈りとしてのブルース精神を注ぐためのキャパシティが、「命預けます」という楽曲にはなかったのだと言える。

この歌を境にして藤圭子のヴォーカルから、得も言われぬリアリティや言葉に出来ない凄みが減少していく。

それはオリジナル曲を歌う時に顕著で、「京都から博多まで」や「別れの旅」といった優れた作品があったにも関わらず、もう起死回生のヒット曲は生まれて来なかった。
そしていつからか「歌う力」も失くなってしまったのだ。

藤圭子はどうしてそうなったのかについて、引退を発表した後に行われたインタビューで、作家の沢木耕太郎にこんな事実を打ち明けていた。

碓かに、ある程度は歌いこなせるんだ。人と比較するんなら、そんなに負けないと思うこともある。でも、残念なことに、私は前の藤圭子をよく知っているんだ。あの人と比較したら、もう絶望しかなかったんだよ。


致命的だったのは23歳のときに受けたポリープの手術だった。
”あの人”とは、手術前の藤圭子である。

ポリープを切り取ることで、歌手としての命まで切り取ることになったというのだ。
そのことについてもいきさつ、その後の喪失感を藤圭子はつつみ隠さずに語っていた。

つらいのはね、あたしの声が、聞く人の心のどこかに引っ掛からなくなってしまったことなの。声があたしの喉に引っ掛からなくなったら、人の心にも引っ掛からなくなってしまった‥‥‥なんてね。でも、ほんとだよ。歌っていうのは、聞いている人に、あれっ、と思わせなくちゃいけないんだ。あれっ、と思わせ、もう一度、と思ってもらわなくては駄目なんだよ。だけど、あたしの歌に、それがなくなってしまった。あれっ、と立ち止まらせる力が、私の声になくなっちゃったんだ。


そうした結果にまで彼女を追い詰めたのは、巨額の金を生み出すスター歌手が誕生したことをめぐる労働環境の変化だ。

大人たちのさまざまな事情から強いられる、限界をはるかに超える仕事の数々。
ヒット曲を生み出さねばならないプレッシャーと、世間から投げかけられる際限のない好奇心。

さらにはマスコミによる記事の捏造とそれに巻き込まれる家族たち、同業者のやっかみと妬み、事情を知らないものの心ない言動、スキャンダルさえも宣伝に利用する所属事務所への疑問‥‥。

藤圭子はスター歌手であること自体に、少しづつ苦しむようになっていった。

そんななかでデビューしてから5年目を迎えた頃、声が思うように出なくなって国立病院で診てもらった。
すると結節だから切らなくては治らないと診断されたのだ。

藤圭子がふだん話すときもなるべく声を使わなかったのは、おしゃべりする声があるなら、歌う声にとっておきたかったからだという。
声がよく出なかったのは生まれつきだった。

だから、なんて言うのかな、出ないのが普通だったんだ、あたしにとっては。その声を貯めて、それを絞り出していたんだよね、きっと。だから、1週間休んで出なくなったときも、そんなに慌てることはなかったはずなんだ。何かの条件が重なっただけのことで、やっぱり休んで、また声を貯めれば、それでよかったんだね。ところが‥‥‥切っちゃったんだよね。早く楽になりたいもんだから、横着して、切っちゃったわけ。


そこまで追い詰められていたということなのだろう。
孤独で苦しくて、早く楽になりたくて、魔が差したように手術してしまった。

日本で最初に登場したブルースとロックを歌えるシンガー、藤圭子は23歳にして実はこの世から消えていたのだ。






(注)10月22日に公開したコラムの改訂版です。なお藤圭子の発言はすべて、沢木耕太郎著「流星ひとつ」(新潮社)からの引用です。

<後編に続く>









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