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追悼・浅利慶太~NHK交響楽団にボイコットされて窮地に立った27歳の小澤征爾を救った仲間たち

2018.07.19

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1959年にたった一人でヨーロッパに向かった小澤征爾は第9回ブザンソン国際指揮者コンクールで第1位になり、翌年はカラヤン国際指揮者コンクールでも第1位となった。
そしてカラヤンに師事した後、1961年からニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の副指揮者に抜擢された。

日本の若者が世界のクラシック音楽の檜舞台で活躍し始めたことは、音楽ファンや関係者だけでなく社会的な関心も集めることになる。

ニューヨーク・フィルが日本公演のために羽田空港にやって来たのは、1961年4月24日のことである。
自力で海外に出て成功をつかんだ小澤にとって、それは約2年ぶりとなる帰国だった。

ハッチが開くと、みんなが「セイジが先に降りろ」と僕を押し出してくれた。出迎えていたのは懐かしい顔ぶれだ。おやじ。おふくろ。兄貴たちに弟のポン。成城の合唱グループ「城の音」のみんな。斎藤秀雄先生もいた。じーんと来た。


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小澤征爾(左)とレナード・バーンスタイン(右)

小澤は完成したばかりの東京文化会館で正指揮者のバーンスタインから、「おまえがやるんだぞ」と言われていた黛敏郎作曲の「饗宴」を指揮した。

感激の日本デビューを飾った後、しばらく日本に残った小澤は5月に日本フィルハーモニー交響楽団、7月には初めてNHK交響楽団(N響)の指揮を務めた。
夏の終わりまで日本で過ごしてからニューヨークに戻った小澤は、翌62年の5月にニューヨーク・フィルの副指揮者の任期を終えて帰国する。

そして名門N響との間で、「客演指揮者」契約が結ばれた。
6月にはメシアン作曲「トゥランガリラ交響曲」の特別公演を行い、日本のクラシック界で最高のオーケストラと組んだことで大絶賛を浴びた。
しかし8月頃から小澤に対して楽員から、「敬語を使わない」「生意気だ」「態度が悪い」という声があがって、いつしか感情的な軋轢が生じていた。

その年の9月1日に27歳の誕生日を迎えた小澤に対して、楽員は平均年齢が40歳を越えていた。
小澤が当時のことををこう回想していた。
 

 10月になって僕らは東南アジアへ2週間の演奏旅行に出かけた。フィリピンでベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を演奏した時。現地のピアニストが弾くカデンツァの途中で、僕はうっかり指揮棒を上げてしまった。オーケストラが楽器を構えた。だがカデンツァはまだ続いている。僕のミスだった。終演後、先輩の楽員さんに「おまえやめてくれよ、みっともないから」とクソミソに言われて「申し訳ありません」と平謝りするしかなかった。
 僕には全然経験が足りなかった。ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎこちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった。
 ニューヨーク・フィルの偉い人が日本に来て、赤坂のナイトクラブに呼ばれたことがあった。音楽会の前日だった。だが、お世話になった人の誘いを断るのも気が引ける。行ったらN響の人たちにバレて気まずい思いをした。
 そんなことが積もりに積もって、練習もうまくいかないほど険悪な雰囲気になっていた。


気持ちのもつれやわだかまりが解消しないまま、11月に開かれた第434回のN響定期公演が新聞に酷評された。
そこから日本のクラシック史に残るN響と小澤との対立が表面化していく。

楽員のメンバーで構成されるN響の演奏委員会がまず、「今後は小澤氏の指揮する演奏には協力しない」とNHKに申し入れた。
それが東京新聞のスクープ記事となって、いわゆるN響小澤事件が勃発する。

「N響、小澤征爾氏をボイコット」
「指揮に疑問多い」ー事務局に申し入れ


このときにマスコミを利用して、問題を大きくしたのはN響側だった。
「年長者に対する非礼」や「タレント性だけで深い音楽的教養はない」といった記事がリークされて、次々に新聞や週刊誌などで活字になった。
海外で成功をつかみ取った若者に対する嫉妬から、調子に乗りすぎた無礼な若造というダーティーなイメージが作られて、それをマスコミが広めていくという構図だ。

悪質な風聞がまことしやかに語られて、バッシングが続いたことから小澤は落ちた偶像になりかけた。
そんな窮地に追い込まれた小澤を見かねて、同世代の表現者たちが立ち上がった。
その中心になったのが、劇団四季を率いていた演劇人の浅利慶太である。

浅利はN響との契約書を精査した結果、小澤との契約を履行して演奏会を行えるようにしなければならないのが、N響でなくNHK本体だということを突き止めた。
そこでN響の楽員と小澤との個人的な対立構造ではなく、契約の当事者であるNHKという巨大な官僚組織を闘いの場に巻き込んで、こじれてしまった事態を収集しようと考えた。

小澤は「客演指揮者」の契約が12月で終了するので、NHKの理事からは「アメリカにいる間に病気になってほしい。そして年内は日本に帰ってくるな」と言われた。
だが仮病という嘘をつくのもおかしな話だと、小澤サイドはこれを拒絶する。

浅利はNHKのトップに立つ会長に宛てて、今後の演奏を保証してもらうための覚書を送ることにした。
自伝「時の光の中で~劇団四季主催者の戦後史」の中で、浅利は演出家らしい仕掛けについてこう述べている。

ここまでくると、事はもう戦争の様相を呈していた。それなら多少は必要悪があってもいいだろう、そう思った私は文面に少し工夫をした。冷静ならその通りの論理なのだが、契約書に馴れない人が読めば感情を激発させるよう、仕掛けを施したのである。


NHKの幹部たちは自分たちが第三者であると思っていたので、伝統あるN響とトラブルを起こした生意気な小澤のために迷惑を被っていると思い込んでいた。
そこに”全責任はお前にあるんだ”と、いきなり頭を蹴り飛ばすような言葉の覚書を突きつけられたのだから、そのことにカッとなって小澤にこう怒鳴ったという。

激昂したNHK・K理事はボクにこうどなった。『おまえの未熟さにも責任があるんだ。サアあやまれ。あやまらなければ演奏会は中止だ』と。ボクは人間的にも音楽的にも未熟かもしれない。しかし、その反省は演奏という手段を通してしか行えないのだ。演奏会の積み重ねによって成長していかなくて、一体どこに音楽家としての成長の場があるのだろうか。


12月1日に小澤はアメリカから帰国し、4日から定期演奏会に向けて稽古を開始するが、楽員のボイコットで練習不能となった。

NHKを正面に引きずり出すにはこれしかないと、浅利が周到に仕掛けた通りの展開になっていった。
1962年12月20日、東京・上野の東京文化会館で行なわれることになっていたN響による第435回定期公演は中止と発表された。

アメリカ軍の激しい爆撃にさらされた戦時中でも休むことなく35年にわたって続けられてきた、伝統を持つN響の定期演奏会が指揮者との対立で中止になったのは前代未聞のことだ。
しかしすでに中止が発表されていたにもかかわらず、小澤は演奏会の当日は契約通りに会場の東京文化会館へ向かった。

楽屋口には浅利が仕込んでいた新聞の社会部や雑誌の記者たちが集まって、小澤の到着を待ちながら騒然としていた。
到着した小澤が会場内に入ると、舞台にも客席にも人は誰もいない。

やがて開演の定刻になると、小澤は舞台袖から中央の指揮台に向かって歩いて指揮台に昇った。
無人の観客席、そして舞台には一面に置かれた譜面台だけで、楽員は誰もいない。
そこに立ち尽くす27歳の若き指揮者‥‥。

カメラマンたちが撮影した小澤の姿は翌日の新聞で社会面に、「天才は独りぼっち」や、「指揮台にポツン」という文字とともに大きく掲載された。

こうして一般の人々の気持ちが、小澤の将来を期待する方向へと向けられることになった。
年が明けた1月15日、日比谷公会堂では「小澤征爾の音楽を聴く会」が開かれた。



演奏は日本フィルハーモニー交響楽団で、会の発起人は浅利慶太、石原慎太郎、一柳慧、井上靖、大江健三郎、武満徹、團伊玖磨、中島健蔵、黛敏郎、三島由紀夫という、同世代の仲間たちである。

その翌日、三島由紀夫が朝日新聞の朝刊に、「熱狂にこたえる道―小沢征爾の音楽をきいて」という一文を発表した。

小沢氏が指揮台にのぼったときには、これを迎える拍手は、一つの巨大な心臓が脈打うつかのようで、小沢氏の目にはすでに涙が光っていた。
―――ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と、シューベルトの「未完成」と、チャイコフスキーの「交響曲五番」との、当夜の演奏はすばらしく、こんなに新鮮で、たんねんな「未完成」はきいたことがなく、わけてもチャイコフスキーは圧倒的であった。
音楽が聴衆をとらえて引回しているのが、ありありと感じられた。
アンコールの物すごさは、おそらく史上に残るものだ。―――
大げさにいうと、国民的喝采であった。小沢氏は汗と涙でくちゃくちゃの顔を、舞台裏で何度もタオルでぬぐい、また拍手にこたえて出て行った。―――
私は友人として、涙と汗にまみれと彼の顔を見ながら、
「そら、ごらん、小沢征爾も日本人だ」と思い、意を強うした。―――


この演奏会のおかげで小澤はイメージを大きくあげる結果になり、その翌日には音楽評論家の吉田秀和たちの仲介でN響と和解が成立することになった。
しかし小澤が受けたダメージは大きく、もう当分は日本に戻ることはないと決意して、アメリカへと旅立っていく。

精神的にめちゃくちゃにやられた。泣いたし、悔しかった。苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない。


小澤がふたたびN響と共演するのは1995年1月で、事件からは32年もの歳月を要することになった。
当時の団員がいなくなるまで、小澤がじっと待っていたからだった。


(注)文中の引用は、浅利慶太著「時の光の中で~劇団四季主催者の戦後史」(文藝春秋)によるものです。

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