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NHK交響楽団にボイコットされて窮地に立った27歳の小澤征爾を救った仲間たち

2016.12.17

1959年にたった一人でヨーロッパに行った小澤征爾は、第9回ブザンソン国際指揮者コンクール第1位になり、翌年はカラヤン国際指揮者コンクールで第1位となった。
そしてカラヤンに師事した後、1961年からニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の副指揮者に抜擢された。

日本の若者が世界のクラシック音楽の檜舞台で活躍し始めたことは、音楽ファンや関係者だけでなく社会的な関心をも集めたのは当然だった。

そのニューヨーク・フィルが日本公演のために羽田空港にやって来たのは、1961年4月24日である。
自力で成功をつかんだ小澤にとって、それは約2年ぶりの帰国だった。

ハッチが開くと、みんなが「セイジが先に降りろ」と僕を押し出してくれた。出迎えていたのは懐かしい顔ぶれだ。おやじ。おふくろ。兄貴たちに弟のポン。成城の合唱グループ「城の音」のみんな。斎藤秀雄先生もいた。じーんと来た。


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小澤征爾(左)とレナード・バーンスタイン(右)

完成したばかりの東京文化会館で小澤は、正指揮者のバーンスタインから「おまえがやるんだぞ」と言われていた黛敏郎作曲の「饗宴」を指揮した。

感激の日本デビューを飾った後、日本に残った小澤は5月に日本フィルハーモニー交響楽団、7月には杉並公会堂における放送用の録音で初めてNHK交響楽団の指揮を務めた。

夏の終わりまで日本で過ごしてニューヨークに戻った小澤は、翌62年の5月にニューヨーク・フィルの副指揮者の任期を終えて帰国すると、名門のN響と「客演指揮者」契約を結んだ。

しかし若くして日本のクラシック界で最高のオーケストラと組むことになった小澤が27歳の誕生日を迎える頃、N響の楽団員から「敬語を使わない」「生意気だ」「態度が悪い」といわれて感情的な軋轢が生じていた。
小澤が当時をこう回想している。
 

 10月になって僕らは東南アジアへ2週間の演奏旅行に出かけた。フィリピンでベートーヴェンのピアノ協奏曲第1番を演奏した時。現地のピアニストが弾くカデンツァの途中で、僕はうっかり指揮棒を上げてしまった。オーケストラが楽器を構えた。だがカデンツァはまだ続いている。僕のミスだった。終演後、先輩の楽員さんに「おまえやめてくれよ、みっともないから」とクソミソに言われて「申し訳ありません」と平謝りするしかなかった。
 僕には全然経験が足りなかった。ブラームスもチャイコフスキーも交響曲を指揮するのは初めて。必死に勉強したけど、練習でぎこちないこともあっただろう。オーケストラには気の毒だった。
 ニューヨーク・フィルの偉い人が日本に来て、赤坂のナイトクラブに呼ばれたことがあった。音楽会の前日だった。だが、お世話になった人の誘いを断るのも気が引ける。行ったらN響の人たちにバレて気まずい思いをした。
 そんなことが積もりに積もって、練習もうまくいかないほど険悪な雰囲気になっていた。


気持ちのもつれやわだかまりが解消しないまま、11月の第434回定期公演が新聞に酷評される。
そして日本のクラシック史に残る事件が表面化した。

楽団員のメンバーで構成されるN響の演奏委員会が、「今後は小澤氏の指揮する演奏には協力しない」とNHKに申し入れたのだ。
それが東京新聞のスクープ記事となって、いわゆるN響事件が勃発する。

「N響、小澤征爾氏をボイコット」
「指揮に疑問多い」ー事務局に申し入れ


マスコミを利用したのはN響側だった。
「年長者に対する非礼」や「タレント性だけで深い音楽的教養がない」といった記事が、次々に流された。
苦労して成功をつかみ取った若者に対する羨望から、調子に乗りすぎた無礼な若造というダーティなイメージが作られる。

まことしやかに悪質な風聞が語られて、バッシングされた小澤は落ちた偶像になりかけた。
そんな窮地を見かねて立ち上がったのが同世代の表現者たちと、才能に期待してバックアップした財界人だ。

劇団四季を率いていた演劇人、浅利慶太が中心になって反撃に出る。
浅利は契約書の内容を精査した結果、小澤との契約を履行して演奏会を行えるようにしなければならないのが、N響でなくNHKだということを突き止めた。
そこでN響の楽団員との個人的な対立構造ではなく、契約の当事者であるNHKという巨大な官僚組織を闘いの場に巻き込み、事態を収集しようと考えた。

12月で「客演指揮者」の契約が終了するので、NHKの理事から「病気になったことにして、12月の定期演奏会はキャンセルすればいい」と小澤は言われた。
だが、嘘をついて仮病というのもおかしな話だと小澤サイドはこれを拒絶、浅利はNHKのトップに立つ会長に宛てて、今後の演奏を保証してもらうための覚書を送った。

ここまでくると、事はもう戦争の様相を呈していた。それなら多少は必要悪があってもいいだろう、そう思った私は文面に少し工夫をした。冷静ならその通りの論理なのだが、契約書に馴れない人が読めば感情を激発させるよう、仕掛けを施したのである。


自分たちが第三者であると考えていたNHKの幹部たちは、生意気な小澤が伝統あるN響とトラブルを起こしたがために、いい迷惑を被っていると思い込んでいた。

そこに”全責任はお前にあるんだ”と頭を蹴り飛ばすような言葉で、覚書を突きつけられたのだからカッとなってしまった。

激昂したNHK・K理事はボクにこうどなった。『おまえの未熟さにも責任があるんだ。サアあやまれ。あやまらなければ演奏会は中止だ』と。ボクは人間的にも音楽的にも未熟かもしれない。しかし、その反省は演奏という手段を通してしか行えないのだ。演奏会の積み重ねによって成長していかなくて、一体どこに音楽家としての成長の場があるのだろうか。


NHKを正面に引きずり出すにはこれしかないと、浅利が仕掛けた通りの展開になった。
1962年12月20日、東京・上野の東京文化会館ではNHK交響楽団による第435回定期公演が行なわれるはずだった。

アメリカ軍の激しい爆撃にさらされた戦時中でも続けられてきた35年の伝統を持つNHK交響楽団の定期演奏会が、指揮者との対立で中止になったのは前代未聞のことだった。

しかし演奏会はすでに中止が発表されていたにもかかわらず、小澤は演奏会の当日、会場の東京文化会館へ向かった。
楽屋口は浅利が仕込んでいた新聞や雑誌の記者たちで騒然としていた。
到着した小澤が会場内に入ると、舞台にも客席にも人はいない。

やがて開演の定刻になると、小澤は舞台袖から中央の指揮台に向かって歩いて指揮台に昇った。

無人の劇場に立ち尽くす27歳の若き指揮者、、、。

カメラマンたちに撮影されたその姿が、翌日の新聞で社会面に大きく掲載された。
見出しには「天才は独りぼっち」や、「指揮台にポツン」という文字が躍っていた。

こうして多くの人々の感情が、小澤の将来を期待する方向に向けられることになった。

年が明けた1月15日、日比谷公会堂で「小澤征爾の音楽を聴く会」が開かれた。
演奏は日本フィルハーモニー交響楽団。
発起人は浅利慶太、石原慎太郎、一柳慧、井上靖、大江健三郎、武満徹、團伊玖磨、中島健蔵、黛敏郎、三島由紀夫。

日比谷公会堂でシューベルトの「交響曲第8番未完成」を熱演した小澤は、超満員の観衆から喝采を浴びたのである。

その翌日には三島由紀夫が朝日新聞の朝刊に、「熱狂にこたえる道―小沢征爾の音楽をきいて」という一文を発表する。

小沢氏が指揮台にのぼったときには、これを迎える拍手は、一つの巨大な心臓が脈打うつかのようで、小沢氏の目にはすでに涙が光っていた。
―――ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」と、シューベルトの「未完成」と、チャイコフスキーの「交響曲五番」との、当夜の演奏はすばらしく、こんなに新鮮で、たんねんな「未完成」はきいたことがなく、わけてもチャイコフスキーは圧倒的であった。
音楽が聴衆をとらえて引回しているのが、ありありと感じられた。
アンコールの物すごさは、おそらく史上に残るものだ。―――
大げさにいうと、国民的喝采であった。小沢氏は汗と涙でくちゃくちゃの顔を、舞台裏で何度もタオルでぬぐい、また拍手にこたえて出て行った。―――
私は友人として、涙と汗にまみれと彼の顔を見ながら、
「そら、ごらん、小沢征爾も日本人だ」と思い、意を強うした。―――


この事件のおかげで小澤は下げた株を大きくあげ直し、音楽評論家の吉田秀和たちの仲介でN響と和解が成立することになった。




しかし小澤が受けたダメージは大きく、もう当分は日本に戻ることはないと決意してアメリカへと旅立った。

精神的にめちゃくちゃにやられた。泣いたし、悔しかった。苦境を支えてくれたこの人たちのことを、僕は一生忘れない。


小澤がふたたびN響と共演するのは1995年1月、事件から32年もの歳月を要した。

当時の団員がいなくなるまで、小澤はじっと待っていたのである。


(注)文中の引用は、浅利慶太著「時の光の中で~劇団四季主催者の戦後史」(文藝春秋)によるものです。

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