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スパイダースとビートルズに出会ったかまやつひろしの快進撃は27歳になると同時に始まった!

2017.03.18

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かまやつひろしはもともとカントリー好きで、ハンク・ウィリアムス以下ひと通りのものは聴いてから、自分でもうたい始めた。
1958年に始まったロカビリー・ブームのなかから音楽シーンに出てきたのはめぐり合わせで、初めからロカビリーはどこか苦手だったという。
ただ、エルヴィスの登場には「すごいのが出てきたなぁ」と感心したという。

エルヴィス・プレスリーの登場がショッキングな出来事だったことはたしかだ。
彼はロックを若者の音楽にした革命児で、怒れる若者の代弁者のような反モラル的な匂いを発散していた。


そのうちに周囲がロカビリー一辺倒になったので、その波に乗るような形になっていった。

日劇ウェスタンカーニバルには、初年度の12月公演から僕も出演するようになった。
だが、ロカビリーはどうも好きになれなかった。
何かホテルのショーのような感じがして、エルヴィスみたいなフラッシュな格好はしたくなかった。
ロカビリーのシャウトも苦手だった。


ロカビリー・スターが総出演した映画が二本、1959年の夏に立て続けに公開になっている。
かまやつひろしも出演したが『青春をかけろ』では与太者の一人、『檻の中の野郎たち』では”イー公”、”ハー公”、”ロー公”のうち、”ロー公”という端役だった。
どちらも役名さえも付いていなかった。

『青春をかけろ』の主題歌だったのが「黒い花びら」(作詞・永六輔 作;編曲・中村八大 歌・水原弘)で、これは第一回レコード大賞を受賞する大ヒットになった。
かまやつひろしはその頃、水原弘と井上ひろしの組み合わせで、”三人ひろし”として売り出されていた。
だが「黒い花びら」でスターになった水原弘は、もう”三人ひろし”である必要はないと一抜けてしまった。

空いた席に加わったのは新人の守屋浩だったが、浜口庫之助が書いた「僕は泣いちっち」がヒットして歌謡曲で売れっ子になった。
井上ひろしもまた戦前の流行歌「雨に咲く花」をリバイバル・ヒットさせて、歌謡曲に転向していった。

二人が独り立ちしたために”三人ひろし”は自然消滅し、かまやつひろしだけが売れずに取り残された。

1960年になってようやく「殺し屋のテーマ」と「皆殺しの歌」という外国映画の主題歌でレコード・デビューした。
しかし「殺し」という言葉が放送コードに触れて放送禁止になったせいで、レコードはまったく売れなかった。
それから2年ぐらいの期間に20枚ほどのシングルを出したが、ヒットは1曲も出なかった。

シングルかまやつ

だが、いま考えると、あそこでなにか一発うまく当たってしまっていたら、現在の自分はなかったと思う。
仲間がみんな売れてしまって、面白くはなかったけれど、あの時ぼくだけ売れなくて、結果的に良かったと思う。


当時は売れない若い歌手の意見など、まったく取り合ってもらえなかった。
カントリーをやっていきたいと思っていても、「かまやつも歌謡曲で一発、ヒットを狙うべきだ」と周囲が進めるので、「イヤだ」とは言えずに「麻雀必勝法」や「結婚してチョ」、「こんがらがっちゃった」という企画ものを出していた。

カントリーが自分の本質にいちばん合っているのかもしれないとぼくはいまでも思う。これは個人的な思い込む味かもしれないが、U2とか、現代のアイルランド系のバンドを聞くとカントリーの匂いがして、いいなと思う。


そんな先の見えない時代に光が差してくるのは1964年、ザ・スパイダースのゲスト・ヴォーカルに参加してからのことである。
ちょうどその時、自分と同じ頃から音楽を始めていたビートルズが、アメリカでブレイクして一気に世界的な成功をおさめていた。

かまやつひろしは彼らのレコード『ミート・ザ・ビートルズ』に出会って、スパイダースのメンバーと一緒に徹底的にをコピーすることで、ロックを自分のものにしていく。

そして正式にスパイダースのメンバーになってからオリジナル曲「フリフリ」を作り、バンドの音楽的な支柱として表現者の道を歩みじはじめる。

参照コラム*『ミート・ザ・ビートルズ』に出会ったかまやつひろしが確信した近未来、そこから生まれたスパイダースの「フリフリ」

かまやつひろしビーチボーイズ

大きなターニング・ポイントが訪れたのはビートルズが来日公演を行った1966年ことだ。

かまやつひろしが27歳になったその年の1月、ブライアン・ウィルソン抜きとはいえ、ビーチ・ボーイズと共演して内容で圧倒していた。勝ち負けでいえば完勝だった。

3月5日にはオランダ・フィリップスから「フリ・フリ’66/ビター・フォー・マイ・デイト」が発売になり、海外進出の可能性が見え始めてきた。


かまやつひろし記事スパイダースと

初のアルバム「ザ・スパイダース アルバム NO.1」を発売したのは4月だが、これは全曲オリジナルという日本のロック史における画期的な作品となった。
この時は「リバプール・サウンド」に対して、「トーキョー・サウンド」と名乗って対抗意識を見せていた。

5月にはホリプロダクションから独立、バンマスの田辺昭和を社長にした自分たちの「スパイダクション」を設立している。
9月には国内向けにヒットを狙ったシングル「夕陽が泣いている」(作詞・作曲 浜口庫之助)を発売した。

そして10月24日から11月14日まで、初のヨーロッパ・ツアーを敢行したのだ。

かまやつひろしスパイダースと

怖いもの知らずで海外を目指す勢いがあった27歳の頃を振り返って、かまやつひろしはメンバーだった堺正章との対談でこう語っている。

〈かまやつ〉
僕らはビートルズの出始めからのつき合いなので、追い抜けるんじゃないかって感覚を真面目に持ってたからね。外国へ行って勝負しても勝てるんじゃないかってね。ダメだったけど…。(笑)

〈堺〉
外国に、ちゃんとしたルートも基盤もなく、破れかぶれに無名のグループが行って、世界的に有名なビートルズと勝負しても、俺たちは奇跡を起こして、負けないんじゃないかと思う気質がスパイダースの気質だったよね。


二人の話からはどんなに確率が低くても、本気で海外を狙っていたことがわかる。

〈かまやつ〉
でもやっぱりあの頃は夢が持てる状態だったね。僕らのように髪を伸ばして、エレキをかきならして成功するってのは、日本でもやっぱり百分の一の確率だったもの。
もしかしてあの時点で、今くらい外国に強いスタッフがいたら成功してたかもしれない。

〈堺〉
あの頃なかったのはやっぱりルートね。頼りはオランダのフィリップス社だけだったもの。
それでも嘘じゃなく、オランダ空港に降りたらファンがいっぱいいたし、ロンドンでは、ほとんどの新聞に出たものね。


ロンドンからの帰りにヒースロー空港で楽器の見張りをしてたら、同じように楽器の見張りをしてる若者が近付いて来て「あんたスパイダースだろ?」と言われて驚いたら、それがザ・フーのキースムーンだったというエピソードも、かまやつひろしらしいものだ。

しかし、彼らが日本に帰ってみたら不在の間に「夕陽が泣いている」が大ヒットし、日本で人気者になってGSブームの先駆者として活躍したので、海外進出する時間的な余裕がなくなってしまった。

そして快進撃はGSブームの凋落とともに、いったん止まらざるを得なくなるのだった。


(参考文献)かまやつひろしの発言は、ムッシュかまやつ著「ムッシュ! 」文春文庫からの引用です。また、かまやつひろしと堺正章の対談は、「グループ・サウンドのすべて」(ペップ出版)からの引用です。

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