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坂本冬美の二七歳~恩師・猪俣公章の死を乗りこえて誕生した「夜桜お七」

2023.12.30

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坂本冬美が内弟子になって師事していた作曲家、猪俣公章が他界したのは1993年6月10日のことだった。

1986年にNHK「勝ち抜き歌謡天国」に出場したときに19歳だった坂本冬美は、番組の歌唱指導を担当していた猪俣に見出された。
歌手になるために上京すると、4月から11月まで内弟子として先生の家に住み込んだ。
そこで自動車の運転から炊事、洗濯、犬の散歩などの雑用という経験を積んでからデビューすることになった。

その間、歌のレッスンは一度もしてもらえず、まるで付き人かお手伝いさんとして雇われたかのような日々を過ごした。
コンテストで歌唱指導しただけで、猪俣は歌の技術と声の素晴らしさは、プロとして十分に通用すると判断していたのだ。

レッスンしてみてびっくりした。
声に張りがある。それも色気のある声。
「ここんところは、こう歌って」
と注意すれば、勘よく直して注文通り。初対面である”有名作曲家”に臆する風もなく、逆に挑むような目の光だった。
(猪俣公章「酒と演歌と男と女」講談社)


だから徹底して自分につき合わせることで、社会人としての常識や礼儀だけでなく、一刻も気を抜けないプロの厳しさを学ばせたに違いない。

デビュー曲の「あばれ太鼓」を筆頭にして、「能登はいらんかいね」「火の国の女」などの代表曲を手がけた編曲家の京建輔は、内弟子時代についてこう語っている。

デビューする前から猪俣先生のご自宅に、住み込んでいらっしゃいました。お客さんが来るとお茶をいれたり、譜面のコピーをとったり、お手伝いさんのように家の中を走り回っていらっしゃいました(笑)。
どちらかといえばそのほうがメインで、場合によっては運転手も。先生が六本木で飲むときなどは、送った後に運転席で帰りを待つなんてこともあったようですよ(笑)。
(京 建輔 Fan Sitehttp://arrangement.sakura.ne.jp/wordpress/?page_id=889)


東芝EMIからのデビューが決まった段階で、大型新人として破格の扱いとなっていたので期待が高まった。
逸材をデビューするからには必ずヒットさせねばと、猪俣はこのときに8曲もの作品を用意して万全を期した。

そのなかにあった勇壮な男歌の「あばれ太鼓」について、坂本冬美は自分には若い女性らしい歌が合うのではないかと思っのでた、「先生、この曲は今の時代には合わないと思います」、率直に疑問を投げかたという。

そう言われて猪俣は迷ったこともあったそうだが、最終的には「あばれ太鼓」をシングル盤のA面曲に選んだ。

天才的な作曲家として認められていた猪俣は、弟子の育て方についてもデビュー曲についても、独自の判断によって成功に導いてった。
1987年3月4日に発売された「あばれ太鼓」は好反響で、大ヒットを記録して坂本冬美をたちまち演歌のスターにしたのである。



長く独身を通してきた猪俣が、19歳年下の一般女性と結婚して53歳で長女を授かったのは、1991年のことだった。
ところがそれからまもなく、肺がんのために55歳の若さで亡くなってしまう。
坂本冬美のソングライティングのすべてを仕切っていた猪俣を失って、順調だった歌手生活は根底からゆすぶられた。

そのときにプロデューサーを頼まれたのは小西良太郎、スポーツニッポンの編集局長の激務を5年間にわたって務め終えたばかりの新聞記者だった。

作曲家としてデビューするときから猪俣との親交が深かった小西は、故人から「冬美のことは、ずっと見ていてくれな、凄い子なんだから。きっと大きくなる。それまで目を離さないでいてくれよ」と頼まれていたという。

断っても断っても、ぜひ引き受けて欲しいと言われた小西は、肚をくくって猪俣亡きあとのシングルを引き受けることにした。
当時の心境をこう記している。

新聞屋のないものねだりかも知れないが、僕が作ることになる冬美の新曲は、前例のない「新鮮さ」を必要とした。猪俣が心血を注いで作ってきた冬美の路線を踏襲するのでは、僕が手伝う意味も薄い。猪俣演歌は冬美に、絵空事を演じる楽しさを与えて来た。それを展開させ、新しい冬美を作るなら、二十七歳の彼女に等身大の素材を用意できないか?
(小西良太郎「女たちの流行歌」産経新聞社)


そこで浮かんだのが林あまり、大胆で生々しい表現の短歌で注目の女流歌人だ。
歌壇で名を馳せている才女が演歌歌手に作詞するとどんな波紋が起こるのか。

小西は初対面で林にいきなり、「歌謡曲の歌詞を書きませんか?歌わせるのは坂本冬美なんだけど‥‥」と切り出した。
すると歌人からは穏やかな表情で、こんな言葉が返ってきたという。

「ご心配なく。私はこの世界じゃ鬼っ子ですから。それに冬美ちゃんは大好きです。ぜひやらせて下さい」


こうして二人の共同作業が始まった。
林の第一歌集『MARS☆ANGEL』に収録されていた短歌連作「夜桜お七」を再構成するかたちで、FAXのやり取りが繰り返されて歌詞が出来あがっていく。

凛として鮮やかな姿の坂本冬美、どんなに辛い状況に置かれても強く生きようとするお七、実像と虚像を重ね合わせた歌詞が完成した。

ポップス寄りの歌謡曲に冴えを見せる三木たかしに作曲を依頼した小西は、歌詞を見たときに三木の目の色が変わったのを見て手応えを感じた。
そして「浄瑠璃を米米CLUBでやる感じがいいと思う」と、二人の意見は一致した。

三木は曲が出来上がった時に、周囲にはこう宣言していたという。

「この歌が売れなかったら、俺が頭を丸めて責任をとる!」




ところがあまりに斬新な内容で、演歌の枠におさまりきらないスケールの「夜桜お七」に対して、売れないのではないかとレコード店などから反対の声があがった。
しかし本人もスタッフたちも「夜桜お七」に賭けて、見事な大ヒットを成し遂げるのである。

小西:オカマバーで流行するようになったら、しめたものだとは思っていた。だけど、正直なところは、期待と不安と半々ってとこかな。演歌の冬美を一気にポップスよりの歌謡曲に仕立て直したんだからね。
冬美:でも、新鮮でした。曲を聴いた時、なんか、ゾクゾクッとする気配がありましたもの。 



坂本冬美は際立った個性を明らかにして揺らがぬ地位を築き上げ、さらなる冒険が可能な未来を27歳で手に入れたともいえる。
21世紀になって始まったカヴァー・ポップスのシリーズ「LOVE SONGS」へと、道はつながっていくのだ。

〈参考文献および引用元〉猪俣公章「酒と演歌と男と女」講談社、小西良太郎「女たちの流行歌」産経新聞社


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