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どんとの27歳~絶頂の日に起こった転落事故

2017.08.05

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どんと(久富隆司)は1962年8月5日、岐阜県大垣市で生まれている。

尾崎紀世彦の「また逢う日まで」が発売になったのは1971年3月5日、ヒットしたのはその年の春から夏にかけてのことだ。
テレビの歌番組を見るのが一番好きだったという小学生のどんとは、1969年から70年にかけて始まった歌謡曲の黄金時代を体験し、歌をうたうことの喜びを知った。

ある時、尾崎紀世彦が突然スイ星の如く現れて(笑)。あの爆発力を「ああエエなあ」と思って。マイクの持ち方まねしたり。初めて買ったレコードも「また逢う日まで」だし。歌なんかもすぐ覚えて、人に歌って聴かすのが好きやったんや。


年末に第13回日本レコード大賞と第2回日本歌謡大賞をダブル受賞し、『NHK紅白歌合戦』に初出場した時のパフォーマンスも評判になり、「また逢う日まで」は翌年にかけてふたたび盛り上がった。



次に歌の衝撃を受けたのは、ラジオを聴いていて知ることになったフォーク・ブームである。
ラジオにマイクを向けてカセットテープレコーダーに録音し、吉田拓郎や泉谷しげる、井上陽水の世界に入っていった。

大好きだった歌謡曲とは正反対のところから、新しい音楽がやって来たという印象を持ったという。
なかでもレコードをすべて買い集めるほど心酔したのはRCサクセションだった。

高校時代から大学にかけて、どんとは忌野清志郎にすっかり染まっていた時期がある。
それと同時期だったが、ビートルズ狂になったのは中学生のときで、ライブの映像を体験したのがきっかけだ。

ビートルズに関してはレコードだけでなく、たくさんの関連図書や資料が豊富だったことから、どんとは資料込みで聴く楽しみを覚えた。

その頃フィルム・コンサートというものを知って、ビートルズの”シェイ・スタジアム”とか見てすごく感銘を受けて、世の中ではそんなのもうあたり前やったんやけど、それでビートルズのレコードを買ったんや。青い2枚組の『1967~70』っていう、あたり前のやつ。あれ買って聴いたらビックリしてさあ。入ってる曲全部いいやん(笑)。





どんとの音楽を受容する力は、生半可なものではなかった。
すっかりロック少年になって1981年に京都大学へ進学すると、初のバンドを結成して音楽活動に励み、やがてローザ・ルクセンブルグとしてNHKのコンテスト、“Young Music Festival”で全国優勝を果たす。

ローザ・ルクセンブルグを特に強く推した審査員は、矢野顕子と細野晴臣だった。

彼らがレコード・デビューしたのは1986年のことである。

しかしバンドは1年後の1987年8月に解散した。
どんとはそのとき、ボ・ガンボスを結成して堰を切ったようにライブやり始めた。

冠詞に付けた「ボ」は敬愛するブルースマン、ボ・ディドリーからいただいたものだ。

1988年に入って100本を超えるライブを行って評判になったボ・ガンボスは、音楽業界でも大きな注目を集めていく。
当時はバンドブームが巻き起こっているさなかだったので、当然だがボ・ガンボスはメジャー・デビューを目指した。

1987年にインディーズのナゴムレコードから出た自主制作EP『高木ブー伝説』が話題を呼んだバンド、筋肉少女帯の大槻ケンヂは著書「リンダリンダラバーソール」の中で、一緒にライブを観に行ったガールフレンドがどんとのことを、「なんか浮世離れした人」と言ったと記していた。
そして、その評は的を射ていたと述べている。

プロデビューという出来事が、必ずしも、すべてのバンドマンにとって、成功や達成や、夢の幕開けを意味していたかといえば、そうとは言えなかったと思うのだ。
むしろ、メジャーのフィールドに立ち入らないほうが、よっぽど自分らしく生きることのできるミュージシャンたちもいたように思う。




メジャーのレコード会社と契約してCDを発表するということは、レコード産業という資本主義の競争社会に身を投じることを意味する。
音楽あるいは作品である以上に、CDとはなによりも商品であった。

「どんな手を使ったって、とにかく売れなきゃ駄目なんだよ。やりたい音楽をやるのは、売れてからだ!」と、大槻ケンヂはスタッフからいつも言われていた。

確かにそうなのだろうけれど、うんざりしたのもまた事実だ。
「いっそ、南の島へでも行って好きな歌だけ歌っていたい」
できるわけもないのにそんなことを考えることもあった。


エピック・ソニーと契約したボ・ガンボスはCDデビューを前にした1989年の2月、中野サンプラザ2DAYSを成功させて評判になった。
ニューオーリンズ・スタイルのブギやブルース、祝祭感に満ちた圧倒的なライブは他にないものだった。

その後に渡米してニューオーリンズでレコーディングを敢行、マイアミでミックスダウンしてファースト・アルバムを完成させた。

ニューオーリンズ音楽の歴史が染み付いてるスタジオでは、ボ・ディドリーを筆頭にネビル・ブラザーズのメンバーなど、伝説のミュージシャンたちとも共演した。

担当ディレクターだった名村武が、「一緒に演奏したことから得たものは大きかった」と語っている。

「その影響が一番顕著に表れたのは、実はレコーディングそのものよりも、帰国直後にやった日比谷野音のワンマンだった。それ以前もボ・ガンボスのライブは面白かったんだけど、ニューオーリンズから帰ってきた直後の野音は特別だった。まず演奏のテンポ感からして違う。ニューオーリンズで、本場のグルーヴを受け継いできた表れだったんだろうと思うね」

〈参照コラム〉1989年のボ・ガンボスが残した音、残せなかった音

しかし鳴り物入りのデビューだった割に、7月1日に発売されたファースト・アルバム『BO & GUMBO』は、それほど売れなかった。

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日本にボ・ディドリーを呼んでボ・ガンボスとの共演ツアーが行われたのは、ニューオーリンズ滞在中のレコーディング風景やライブ等を収録したビデオ「Walking To New Orleans」が発売になった9月22日からだった。

ところが9月23日、NHKホールでのライブ本番中に、どんとが客席へ転落するアクシデントに見舞われる。
メジャーデビューしたその年に27歳になっていたどんとは、後に自分自身を客観的な口調で振り返っていた。

この絶頂の日にどんとはステージから落ちて左うでを骨折し、ギターが弾けなくなり、その影響で声も出なくなり、大阪厚生年金ホールの満員の客の前でまったく声が出なくなるという地獄を見て、それから2年位のあいだ声は治らず、低迷してしまったのである。


ボ・ガンボスを結成してメジャーと契約したおかげで、どんとは崇拝するボ・ディドリーとともに、ニューオーリンズでレコーディングすることができた。
しかし、大きな期待とプレッシャーのなかで、常に自分を高め続けてきた反動が生まれてくる。

夢の実現に向けて集中力と爆発力で、ひたむきすぎるほどまっすぐに突き進んできたどんとは、そこからボ・ガンボスのKKYON、ゼルダの小嶋さちほ、サンセッツの井上憲一と井ノ浦英雄の5人で、「海の幸」というプロジェクトを始動させた。
精神的なリハビリテーションを必要としていたのだろう。

1990年にインディーズから発売された海の幸のアルバムでは、どんとは、飄々としてリラックスした持ち味で、まさに「なんか浮世離れした人」だった。

声が治ったことでボ・ガンボス史上でも最高の演奏をしたと、どんとが自負するライブは1992年の夏に京都の西部講堂で行われた。
そのフリーコンサートが、どんとにとって20代最後の演奏となった。




どんとはその後、1994年のツアー中にボ・ガンボスからの脱退を表明することになる。
「ビジネスなんて必要ないのだ」とバンド活動を打ち切り、たった一人で好きな歌だけ歌っていく道を選んだのだ。
そして家族とともに、南の島の沖縄へ移住した。

それから数年後、東京のイベントでどんとと共演した大槻ケンヂは、こんな感想を記している。

商売優先のメジャーから離れ、沖縄で好きな歌だけ歌っていこうとした彼の人生選択が、現実と折り合いのつかない悲惨なものであったなら、久しぶりに会った彼が、疲れ切り、そこいらのローカルバンドマンほどのムーブしか見せてくれなかったなら、やはり体制の中でしか音楽はできぬものなのかと、がっかりしていただろう。
とんでもない。『魚ごっこ』の歌詞の通りに、どんとさんは誰にも文句を言わせない、いい塩梅の男、として、再び目の前に現れたのだ。
矛盾を抱えながらも、メジャーのフィールドの中で、なんとか折り合いをつけてやっていくしかない僕にとって、そのライブのどんとさんは、やっぱり水の中をスイスイと泳ぐ魚に見えたのであった。


普通の人の倍の速さで生きてきたどんとは、2001年に旅先のハワイで永眠した。






(注)文中のどんどの発言は、「ミュージックマガジン2月増刊号 どんとの魂」( 2015年 )からの引用です。また、大槻ケンヂ氏の文章は著書「リンダリンダラバーソール」 (メディアファクトリー)からの引用です。


どんとオフィシャルホームページhttp://www.songstar-donto.com/profile.html

『どんとの魂』

『どんとの魂』

(ミュージックマガジン )


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