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夢見るシャンソン人形から脱却して国民的歌手へと返り咲いたフランス・ギャル

2018.01.20

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1960年代に日本でもブームとなったフレンチポップス。
その中心にいたシルヴィ・バルタンが1965年に来日を果たしたときには、空港に千人ものファンが押し寄せる騒ぎになった。
さらにはCM「レナウン イエイエ」にも起用されるなどで、日本人にも身近に感じられたこともあって高い人気を集めた。

そしてこの時代を振り返る上でもう一人忘れてはならないのが、シルヴィの一年後に来日を果たして「夢見るシャンソン人形」をヒットさせたフランス・ギャルだ。



本名、イザベル・ギャルがパリで生まれたのは1947年である。
父親が作詞家という音楽一家で育ったイザベルは、16歳のときに父親がレコード会社に売り込んだことがきっかけで、レコードデビューを果たした。
しかし、すでにイザベルという人気シャンソン歌手がいたため、名前はフランス・ギャルに変えられてしまった。

この名前は父親か、あるいはプロデューサーがフランス対ウェールズのラグビー中継をラジオで聞いていたとき、「フランス・ギャル」というフレーズが聞こえてきたのが由来とされている。
この場合の「ギャル(Galles)」は、フランス語でウェールズという意味だ。
イザベルは冗談のようなこの名前に抵抗したが、結局はフランス・ギャルでデビューすることになった。

最初の転機が訪れたのは1965年だった。
ヨーロッパ最大級の音楽コンテスト「ユーロビジョン・ソング・コンテスト」に、セルジュ・ゲンズブールが書き下ろした「夢見るシャンソン人形」で出場すると、見事グランプリに輝いたのである。
2人の名前は一気に世界中に広がり、瞬く間に時の人となっていった。



その後も何曲かはヒットしたフランス・ギャルだったが、ゲンズブールの歌詞が過激になっていったことや、アイドルを演じることに抵抗を覚えていったことなどから、次第に曲が売れなくなってしまう。

それからしばらくの月日が過ぎた1973年のある日、フランス・ギャルはたまたま耳にした「Attends-moi(僕を待っていて)」という曲に心を奪われた。
この曲を歌ったのはシンガー・ソングライターのミシェル・ベルジェだった。



ミシェルはフランス・ギャルと同じ1947年に生まれて、フランス・ギャルと同じ1963年にシンガーとしてデビューを果たしていた。
ヒットには恵まれなかったミシェルはその後、作曲の才能を買われてレコード会社専属のプロデューサー兼ソングライターになった。
しかしキャロル・キングをはじめとしたソングライターたちが、70年代に入ってアメリカで大きな成功を収めていったことから、ミシェルもまたシンガー・ソングライターとして自身の作品を発表し始めたのだ。

どうしてもミシェルに曲を書いてほしい、ミシェルの曲を歌いたいと思ったフランス・ギャルは、何度かアプローチをかけた。
そして半年後、ミシェルのアルバムにボーカルとして参加することになる。



実際にフランス・ギャルと共演しじたミシェルは、シンガーとしての魅力を感じて要望に応えることにした。
1974年にリリースされた「La Déclaration d’amour(愛の宣言)」は、全仏チャートで17位と久々のヒットとなる。


フランス・ギャルとミシェルはその後、アルバム制作に取り組みはじめる。
このときフランス・ギャル27歳、ようやく過去のイメージから解放されて新たな道が拓けようとしていた。

1976年にリリースされたソロ・アルバム『France Gall』は、かつてのアイドルとしてのイメージを払拭し、大人のラヴソングを歌う新しいフランス・ギャルの魅力を世間に知らしめた。
そしてこの年に結婚して公私共にパートナーとなった2人は、80年代になると次々とヒット曲を連発し、ほんとうの黄金時代を築いていくのである。

(2018年1月22日に一部修正いたしました)



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