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ジョン・コルトレーン27歳〜何かを探しあぐねていた無名の下積み時代

2019.07.17

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モダンジャズ界サックスの巨人、ジョン・コルトレーン。
1950年代の終わりころから一気に花を咲かせて疾風のごとく通り過ぎていってしまった男である。
もう一人の巨人、マイルス・デイヴィスとは良く知られている通り同年齢だった。
彼とマイルスは29歳の頃から約5〜6年に渡って同じバンド(第一期マイルス・デイヴィス・クインテット)でプレイをしていた時期もあった。
ジャズファンの中では“晩成型の巨人”とも言われた彼だったが、マイルスと組む少し前の時期…27歳前後にはどんな活動をしていたのだろう?
──それは彼のキャリアにおいてまさに“下積みの時代”だった。

高校卒業と同時に友人らと共にフィラデルフィアで暮し始めた彼は、母親から誕生祝いとして中古のアルトサックスをプレゼントしてもらう。
彼の“ジャズ人生”はここから始まった。
音楽学校での本格的な勉強、キャンベルスープ本社での仕事、兵役経験、そして薬物とアルコール中毒…20代の彼はプレイヤーとしもまだ無名で、生き方を含め自分の演奏スタイルを探しあぐねていたという。
23歳を迎えた1949年の終り頃から約18ヶ月の間、モダンジャズの原型となるスタイル“ビバップ”を築いた功労者の一人ディジー・ガレスピーの楽団に参加していたが…後に彼はその頃のことをこんな風に語っている。

「ディズのバンドにいる時、私がやるべき事が“自らを表現する事”だという事実に気がついてなかった。同僚のミュージシャンに負けたくなくて、決まりきったフレーズを吹き、流行っている曲を覚えることしか考えてなかった。」


当時のディジー・ガレスピーは、自分が率いるビッグバンドの経済的に成功させるために、コマーシャルな曲を中心にレパートリーを組んでいたのだ。
それはプレイヤーにとって譜面どおりに演奏するだけで、ほとんどインプロヴィゼーションの機会がないことを意味していた。
コルトレーンにとって、そこでの仕事は音楽的飛躍には繋がらず、キャリアの向上にも結びつかなかった。

「長いこと手探り状態が続いていたんだ。新しいことをやろうとしてはいたけれど…なかなか踏み切れなかった。」


ディジー・ガレスピーのもとから離れた彼は、ジャズからR&Bへ、そしてまたジャズへと揺れ動き、麻薬からアルコールへ…再び麻薬へと、まるでシーソーのような“行きつ戻りつ”の生活を繰り返していた。


1953年、27歳になった彼はフィラデルフィア周辺でフリーランスの演奏家として色々なバンドに参加するようになる。
その頃、アメリカでは新しい音楽の風が吹きはじめていた。
黒人向けの音楽では、新たに登場したドゥーアップグループやファッツ・ドミノやリトル・リチャードといったピアノがリードするブギウギバンド、チャック・ベリーやボ・ディドリーといったブルースの流れを汲んだR&Rが人気を集めていた。
白人の音楽ファンにもR&Bやブルースが浸透しはじめて…あのエルヴィス・プレスリーの登場が目前に迫っていた頃である。
1954年の初頭、に彼はスウィング・ジャズの至宝と呼ばれたアルト作サックス奏者ジョニー・ホッジスのバンドに参加する。
ジョニー・ホッジスは彼が“私にとってのアイドルだ”と公言していた人物である。
彼は当時のことを嬉々として語っている。

「ジョニー・ホッジスは私が音楽を始めて最初に憧れたスターなんだ!実に楽しい仕事だったよ!演奏する曲はどれも面白かった。見かけ倒しの曲などまったくなかった。みんな中身がありスウィングしていたよ!」



それは彼がバック演奏者として過ごした時期において、最も充実した日々だったという。
当時の流行に左右されない、ジャズの伝統に根ざした一流ミュージシャンとのツアー経験を、彼はこんな風に語っている。

「古い時代から活躍してきた本物のミュージシャンから貴重な教えを受けたんだ!」


しかし、ここでも麻薬常用がバンドの規律を乱すとして、彼は解雇されることとなる。
その翌年、マイルス・デイヴィスのバンドに加わることによって、ようやくジャズメンとしての頭角を現しはじめた彼だったが、まだ薬物や酒に依存する日々は続いていたという…

<参考文献『ジョン・コルトレーン“至上の愛”の真実』アシュリー・カーン著/川嶋文丸訳>


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