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泉谷しげる27歳〜フォーライフレコードという“革命の舟”に乗った男達

2018.05.26

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当時23歳だった泉谷しげるは1971年の11月にライブアルバム『泉谷しげる登場』でデビューを果たす。
そして翌年に名曲「春夏秋冬」をリリースし、一気にその名を全国に広めていった。
泉谷は当時のことこんな風に振り返っている。

「俺たちフォークのシーンは吉田拓郎とかがマイナーレコード会社から出てきた頃で、まだレコーディングのやり方などよくわかっていなかったんだよね。きわめて日本的な録音というものを“ギョウカイ”だか“ゲイノウカイ”だか何だか知らねぇが、わけのわからないスタジオのオヤジがよぉ、昔ながらのしょうもない習慣を押しつけていた時代だったんだよ。そんな時にミュージシャン側に立って“こういう風に録るんだ”と、レコーディングのやり方を教えてくれたのが加藤さんなんです。」

「春夏秋冬」の作詞作曲は泉谷本人だが、アレンジ(編曲)を担当しヒットに導いたのは当時プロデューサーとして活躍していた加藤和彦だった。
その頃の加藤と言えばサディスティック・ミカ・バンドなどを通じて海外の音楽事情に精通し、グローバルで洗練されたライフスタイルを貫いていたという。
1970年代初頭の日本では、安保闘争・学生運動の熱が少しずつ冷めてゆく中、一部の若者たちの間には得も言われぬ敗北感と挫折感が漂い始めていた。
そんな中、フォークブームの熱が徐々に高まってゆく。
泉谷は、自身の代表曲となってゆく「眠れない夜」や「春のからっ風」を含む数枚のアルバムを発表した後に、それまで在籍していたエレックレコードを離れることとなる。
1975年6月1日、吉田拓郎、小室等、井上陽水、そして泉谷しげるの4アーティストによってフォーライフレコードが設立される。
それは彼が27歳を迎えた翌月の出来事だった。
当時の様子を泉谷は鮮明に憶えているという。

「俺はその年の3月、アメリカに行っている時に国際電話がかかってきて誘われたんだ。最初の頃は冗談というか遊びだと思ってたよ。そしたらマジに株主総会とかさ(笑)株券の何パーセント持つとか、えれえ話になっちまって(笑)ちょっと待て!俺にそんな話すんなよ!ミュージシャンが株券もってどうすんだよって!(笑)」

従来の体制では「契約される」立場だったアーティストが、主導権を持って「契約する」側となる。
それは、つまり“アーティストが経営する会社”だった。
日本中の音楽ファンが見守る中、小室等を初代社長に社員わずか30数名のレコード会社は歴史的な一歩を踏み出した。
当時、フォーライフに対する大手レコード業界からの圧力は凄まじく、小売店への販売ルートからプレス工場にいたるまでことごとく苦境に立たされたという。
だが、この新しいレコード会社にはメジャーにはない斬新さを追求する若い熱気が溢れていた。
産声をあげたばかりのフォーライフは、その直後に日本の音楽史を塗り替える空前のビッグイベントを経験する。
今や伝説として語り継がれる、かぐや姫との“つま恋コンサート”である。
数万人収容可能の野外ステージ、しかもオールナイト…それは、何もかもがそれまでの常識をくつがえす度肝を抜くイベントだった。
フォーライフの設立にはこんな経緯があったと言われている。
後の社長となる後藤由多加(当時、ユイ音楽工房の社長)と吉田拓郎が、前年にボブ・ディランのコンサートを観に渡米した際にアメリカの音楽業界事情を知ったことだった。
その時、二人はウッドストックのようなフェスや、自分達のレーベルを持つという夢を語り合ったという。
時を同じくして「小室等さんがレコード会社を作るなら出資する!」という提案が小室の事務所に持ち込まれた。
小室はその話を拓郎に持ちかけることで計画は具体化していった。
拓郎は当時を振り返りながらこう語る。

「小室さんと僕とがともかく最初二人で色んなことを練ってたんですよ。その時に“拓郎、お前は泉谷に電話しろ、俺は陽水に連絡するから”という小室さんの一言で決まったんです。皆さんが思ってられる通り、彼が言い出しっぺですよ(笑)」

では、拓郎から連絡を受けた泉谷はどう思っていたのだろう?

「どうかなぁ〜(あの仕掛人は)やはり拓郎でしょう!全部ああやって盛り上げて“面白いことやろう!”って言うのはだいたい彼だからね。ほとんど相手に有無も言わせずに相づちをうたせる感じでネ(笑)あの熱っぽい勢いでやられちゃうと、みんな“うん!”って言っちゃうのよ(笑)彼にはそういうパワーがあるから。」

当時の吉田拓郎といえば、森進一に楽曲提供した「襟裳岬」で1973年度のレコード大賞を受賞し、井上陽水はアルバム『氷の世界』が年間アルバムチャートの1位を獲得し、それまでリリースしたアルバムすべてがベスト10に入るという人気ぶりだった。
小室等は当時を振り返りこう語る。

「二人とも“ただ追い風に乗っている”という感じではなかったと思います。むしろ“何かしなきゃ!”という状況だったでしょうし(ファーライフ設立にあたって)勝算なんてなかったですよ。」

1975年8月25日、泉谷はフォーライフレコード移籍後の第一弾としてシングル「寒い国から来た手紙」とライブアルバム『ライヴ!!泉谷〜王様たちの夜〜』をリリースする。
泉谷は後に「寒い国から来た手紙」という歌を書いた経緯を冗談まじりにこんな風に語っている。

「60年代のアメリカスパイ映画に“寒い国から帰ったスパイ”というのがあって、暗くて重い映画だったが此のタイトルが気に入ったのか…後に“寒い国から来た手紙”という歌を作ったんだよ。一応バラしとくな!(笑)」

<参考文献『わが奔走—IT’S MY LIFE』泉谷しげる著(ロックキング・オン)>

冬の国から都のすみへ便りがとどく
こわれたユメにしがみつかずに早く帰れと
ユメはまださめてないから しばらくここにいる
ひねてないのにひねくれてみて ムリにだす返事
まぼろしよ 早く 消えてくれよ
わかいた笑顔は 僕には似合わない

帰る人より 残る人の終りのない顔
やさしい冬がもしあるなら それもみてみたい
長い手紙はとりとめもなく ただ長いだけ
さめないユメを背中にうけて ひたすらひたすら

まぼろしよ 早く 消えてくれよ
わかいた笑顔は 僕には似合わない





【泉谷しげる オフィシャルサイト】
http://www.wagasha.co.jp/






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