「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the STORY

バルバラ27歳〜パリの名門キャバレーとの契約、様々な芸人たちの名演名唱に触れる日々、黒い衣装との出会い

2019.11.24

Pocket
LINEで送る

常に黒い衣装に身を包んで歌った孤高のシャンソン歌手、バルバラ。
平和主義者で、エイズ撲滅運動の運動家でもあった彼女。
自伝『それは黒いピアノだった…未完の記録』を執筆半ば、1997年アメリカの病院で呼吸器系の病気のため67歳で死去した。
彼女は1930年にパリで生まれた。
幼少期の頃、彼女の住んでいたパリはナチスの占領下となり、日々死の恐怖に怯えながら暮していたという。
さらに彼女は子供の頃、実父による近親相姦で心に深い痛手を負う。
ロシアの血を引くユダヤ人としてナチスから逃れるためフランス国内を転々とし、父親との関係に苦しみながら複雑な少女時代を送った彼女。
15歳で学校に通うのを止め、歌手になる道を選ぶ。
家族との関係は、けっしていいものではなかった。
どうすれば歌手として食べて行けるのか?もがく日々が続く。
歌う場所を求めてベルギーへ行くも、歌の仕事はおろか宿すらなく…冬のブリュッセルの街路に立ちつくしたこともあるという。
キャバレーの厨房で客のグラスをひたすら洗いながら、チャンスが巡ってくるのを待ち続けていた。
ベルギー時代には、志を持つ仲間と活動を共にしたり、短い結婚生活もあったという。
暗い過去を引きずりながら…彼女は下積み時代に、どんな日々を過ごしていたのだろう?


ベルギーでの生活をあきらめ、フランスへ戻った彼女は、1958年1月(当時27歳)に歌手として大きなチャンスを掴む。
50年代後半から60年代半ばのセーヌ川左岸で多くのアーティスト達が演奏したキャバレー『レクリューズ』で、ピアノの弾き語り歌手として契約を交わしたのだ。
この契約を機に、彼女は自作自演のシャンソンを歌い、本格的に歌手生活をスタートさせる。

「その契約は、最初は月ごとに更新されるものだったけど、しだいに年ごとになって、けっきょく6年間歌うことになった。私はその間に二十世紀フランスが誇るシャンソン歌手の歌声や、様々なジャンルのエンターテイメントに触れたわ。ベルギー出身の道化役者ジャニ・エスポニト、スイスから来た風船無声劇のベルナール・アレー、カナダのウクレレ弾き語り歌手レイモン・レヴェック、ギタリストとして数々の名演奏を残したステファン・ゴールマン、俳優のジャック・デュフィロやジャック・ファブリなど…毎晩、私はこうした人達の名演を楽屋の椅子に座って聴き入っていたわ。自分の出番をじっと待ちながら…体が裂かれてもその場から離れる気にはなれなかった。」


その店の常連客には、有名無名問わず新しいものを求める作家や学生、ダンサーやコメディアン、そして政治家や、時には当時のフランス大統領の姿もあったという。
彼女はそんなキャバレーで前座をつとめながら、徐々に注目を集めるようになったという。

「最初、私は黒いスカートにセーターを着て歌っていたわ。そのうちお店のコンシェルジュ(管理人)であり、縫い子でもあるおばさんが古いミシンで私のために衣装を縫ってくれたの。高い衿をつけたビロードのジャケットだったわ。その服が元になって、私の定番の舞台衣装が生まれたの。」


その後、スカートよりも動きやすいパンタロンを履くようになり、ステージでの“動き”もより自由になってゆく。
彼女は黒い衣装でステージに登場し、ピアノに近づいていくときはできるだけゆっくり歩き…そして躍動的に鍵盤を弾き、ほとばしる衝動を声にのせ、客席に向かって思い切りエネルギーを解放する演出とテクニックを身につけた。

「周囲の人には不自然に見えたかもしれないけど、私にとっては毎晩のステージが訓練だったわ。その一つひとつが、より純粋なものへ向かうためのものだった。」



<参考文献『一台の黒いピアノ…』バルバラ(著)小沢君江(翻訳)/緑風出版>

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

    関連記事が見つかりません

[TAP the STORY]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ