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ジョー・ペリー27歳〜初めての日本公演、“金のなる木”になったバンド、パンクに刺激を受けて

2018.11.03

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「あの頃は金がザクザク入ってきてたよ。欲しいものがあるときは、マネージャーに電話すればすぐにキャッシュがドーンと積まれる。俺達は全速力で突っ走っていた。エアロスミスは“金のなる木”だった。世界中のメジャーなコンサート会場を満杯にしていたからな。」


1971年、当時21歳だったジョー・ペリーは2歳年上のスティーヴン・タイラーらと共にエアロスミスを結成する。
1973年に1stアルバム『Aerosmith(野獣誕生)』を発表して以降、1974年の『Get Your Wings(飛べ!エアロスミス)』、1975年の『Toys in the Attic(闇夜のヘヴィ・ロック)』、1976年の『Rocks』と3枚のアルバムを立て続けにヒットさせアメリカンハードロックバンドの最高峰として不動の地位を確立する。
彼が27歳を迎えた1977年頃から、エアロスミスは日本やヨーロッパーを含む大規模なツアーをこなす日々を送っていた。

「ノンストップで続くツアーのせいで俺はクタクタだった。だけど日本での7公演が決まったと聞かされたときはとても嬉しかったよ。当時、アジアはロックンロールの巨大なマーケットになりつつあったしね。早く日本に行きたくてたまらなかったよ。」


その合間に新作のレコーディングが行われるという過酷なスケジュールになり、メンバーは以前から使用していたドラッグの量を増やしながらなんとか乗り切っていたという。
そんな中リリースした5thアルバム『Draw the Line』(1977年)が全米チャートを11位まで駆け上がるヒットを記録する。


「東京公演では、ビートルズを日本に招いた伝説のプロモーター、Mr.ウドー(有働誠次郎)が、エアロスミスをまるでビートルズ再来のように歓待してくれたんだ。日本ではドラッグこそご法度だったが、ありとあらゆる酒がエンドレスで振る舞われた。ショーには予想もしなかったほどの大観衆が詰めかけてくれた。日本のファンは礼儀正しくて、1曲が終わるごとに10秒間ほど熱烈に拍手喝采をしてくれたあとにピタッと静かになる。針が落ちでも聞こえるくらいシーンとなるんだ。俺は自分達がなにかヘマでもしでかしたのかと通訳にたずねたんだ。通訳は俺にこう言った。“客が静かになるのは、曲の合間の君達の言葉や動きを何一つ逃すまいと思っているからだよ”ってね。驚いたよ!それほど真剣に聴いてくれるなんて泣かせるぜ!」


1978年3月には、ロックフェスティバル『California Jam 2』でヘッドライナーを務め、同年7月に公開されたビートルズのアルバム『Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Club Band』を取り上げた同名タイトルの映画にも出演している。
そんな多忙な日々を送る中、バンド内では彼とスティーヴンの関係悪化が進み、ステージ上で小突き合いまでしていたという。

「あの頃はスティーヴンとも色々あったけど、俺達はまだやれる!その信念は変わっていなかった。約5年に及ぶツアー生活でヘトヘトだったのは確かだ。そんな中、ニューヨークにある地下のスタジオに籠って、8トラックに新曲を録音したんだ。セックス・ピストルズやラモーンズからの影響をモロに感じさせる数曲だった。当時、パンクがロックンロールに持ち込んだむき出しのエネルギーには恐れ入ったよ。奴らのアティテュードも気に入った。パンクロックの原型といわれるニューヨーク・ドールズからも数年前に衝撃を受けていたよ。パンクに対する俺達の答えとして作った曲が“Bright Light Fright”だった。」

  


1977年12月にリリースされたエアロスミスの5thアルバム『Draw the Line』は、当時コロムビアレコードの売り上げ新記録を更新した。
発売後わずか6週間以内で100万枚を超えるセールス記録を叩き出したのだ。

「俺達は全速力で突っ走っていた。エアロスミスは“金のなる木”だった。」


<参考文献『ジョー・ペリー自伝~エアロスミスと俺の人生~』ジョー・ペリー (著), デヴィッド・リッツ (著), 細川真平 (監修), 森幸子 (翻訳), 前むつみ (翻訳), 渡部潮美 (翻訳), 久保田祐子 (翻訳), 木戸敦子 (翻訳)/ ヤマハミュージックメディア>

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