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バディ・ガイ27歳〜シカゴブルースの黄金期、クラプトンやスティーヴ・ミラーによる貴重な証言

2019.01.12

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ブルースロックの“成熟期”ともいえる70年代を代表する白人ギタリストの一人に、スティーヴ・ミラーという男がいる。
少年時代をテキサスで過ごした彼は、12歳の時には早くも黒人クラブでギターを弾いていたという筋金入りのギタリストである。
ボズ・スキャッグスらと結成したアーデルズ、ファビュラス・ナイト・トレインを経て、シカゴを音楽の拠点とした彼は、マディ・ウォーターズ、バディ・ガイ等の数々のセッションをこなした。

「俺のような白人の“坊や”が黒人のクラブでブルースを弾いてりゃ大ウケするに決まってるよ。当時、確かバディの年齢は27歳だった。ワンステージ終わるごとにウィスキーを一杯飲まされた。それがバンドのしきたりだったんだ。」


さかのぼること1950年代…ルイジアナ州バトンルージュで、地元のミュージシャン、ビッグ・パパ・ティリーのバンドで活動していたバディ・ガイは、ラジオ局WXOKのDJだったレイ・メドウズの協力を得て、1957年(当時21歳)に2曲のデモ音源をレコーディングする。
翌1958年、彼はさらなる躍進を遂げるべくシカゴへと移住する。
同年、オーティス・ラッシュの紹介でコブラレコードと契約。
傘下のアーティスティックレコードからシングル「Sit And Cry (The Blues)”」でデビューを果たす。


彼はこのセッションではギターを弾いておらず、代わりにオーティス・ラッシュが弾いている。
1959年にコブラレコードが倒産すると、彼は念願だったチェスレコードと契約する。
チェスでの初セッションは彼が24歳を迎えた1960年だった。
その頃のアメリカの音楽シーンといえば…60年代に入り、ウディ・ガスリーの放浪バラードのコピーをやめ、時代に合った自作の歌詞で歌い始めたディランが大きな社会的影響を持つようになっていた。
シカゴではブルースの人気が高まり、大学生たちの溜まり場となっていたノースサイドのライブハウス“ビッグ・ジョンズ”にもブルースが進出していた。
当時の様子を憶えているというエリック・クラプトンは、こんな貴重な証言をしている。

「シカゴにあった“ビッグ・ジョンズ”には、当時バーズのような人気ロックバンドが出演することもあったが、月曜日はバディ・ガイとジュニア・ウェルズ、水曜日がマディ・ウォーターズ、木曜日がハウリン・ウルフ、そして週末にはエルヴィン・ビショップをゲストに迎えたポール・バターフィールド・ブルースバンドが出演し、地元のブルースバンドと共演していたんだ。」



ヤードバーズがまだイギリスの新人ロックバンドだった頃、クラプトンはブルース狂として一目を置かれていた。
シカゴのブルースマンのレコードを聴いては、フレーズをコピーすることに熱中していたのだ。
アメリカから輸入したチェスのレコードを擦り切れるほど聴きながら、マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフのバックでギターを弾いていたバディ・ガイのプレイに注目していたという。
その当時27歳だったバディ・ガイは、過去を振り返ってこんな言葉を残している。

「あの頃、みんなが“ノースサイドが盛り上がっている”って言い出したんだ。誰かが俺に“ポール・バターフィールドって奴がご機嫌らしいぞ!”というから“誰だいそれは?”って聞き返したよ(笑)マイク・ブルームフィールドみたいな連中を見ることはあったけど、当時は黒人のクラブで白人を見かけたら警官だと思ってたよ(笑)」






<引用元・参考文献『アイ・ガット・ザ・ブルース―バディ・ガイ自伝』バディ ガイ、ドナルド・E. ウィルコック (著)中江 昌彦 (翻訳)/ブルースインターアクションズ>

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