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アンソニー・キーディス27歳〜ゴールドディスクの獲得、長期ツアー中にハマった“大食いゲーム”とセックスパーティー

2019.01.19

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1989年8月、レッド・ホット・チリ・ペッパーズは新メンバーにジョン・フルシアンテ、チャド・スミスを迎え4thアルバム『Mother’s Milk(母乳)』をリリースした。
同作は、バンドにとって大きなステップとなり、彼らはこの頃から大規模なツアーを行うようになる。
バンドのフロントマンでもあったアンソニー・キーディスは、その年の秋に27歳を迎える。


「アルバムをリリースした翌月から、俺達は約1年間にも及ぶツアーに出たんだ。移動手段も車もそれまでのバンとは違い、本格的なツアーバスにグレードアップしたよ。ツアーには多くのスタッフが同行するようになった。」


彼の生い立ちをさかのぼると…アメリカにはびこる“ドラッグ社会”の闇が見えてくる。
1962年11月1日、彼はミシガン州グランドラピッズで生まれる。
父親はリトアニア系の移民、母はギリシア、オランダ、イングランド、アイルランド、フランス、モヒカン族の混血だったという。
3歳の頃に両親が離婚。
彼には複数の異母(父)姉妹・兄弟がいる。
11歳まで母親と暮らし、その後、父親と共にロサンゼルスへと移住。
彼の父親は麻薬常用者だったため、絶えずドラッグを使用していたという。
生活環境には常にドラッグがあり、最初のドラッグも父親から得たものだった。
そんな彼が、27歳を迎えた頃に行ったこのツアーで、なんとドラッグと手を切ったというのだ。

「当時、コカインもアルコールもやめてたから、俺にはそれに代わる新たな娯楽が必要だった。それで退屈をまぎらわすために考えついたのが“ザ・ジョブ”という遊びだった。この時は各地の大学を数多く回ってた。会場で出される食事はどれも学食の残り物を温め直したもので、サラダには必ずと言っていいほど業務用のドレッシングがかかっていた。見るからに怪しい液体で、見方によっては掃除用に使うワックスにも似ていた。最初のジョブを課したのはカナダだった。細かく切ったベーコンが巨大なボウルに山盛りになっていて…みんなで金を出し合って賞金を作り、ボウルのベーコンを全部食べたら賞金がもらえるというルールだった。完食は無理だったが、俺は制限時間3分内に約半分の225グラムをたいらげることで賞金を120ドルもらった(笑)」


彼らが考えついた““ザ・ジョブ”はツアークルーの間でも(強制的に?)行われれるようになり、次第に難易度も上がりエスカレートして言ったという。
“大食い”の次に彼がハマったものが“セックス”だった。

「当時、俺はそれまで付き合っていた彼女と別れたばかりでフリーの身だった。ドラッグもやめて酒も呑んでなかったからいつもシラフだろ?続いていくツアーの中で、俺はメンバーやクルーの連中とセックスパーティーを開くようになった。あちこちの国で色んな女達を抱いたよ。日本の女のコはヨーロッパの女性と違って大人く、最初はモジモジしてばかりなんだけど、いざセックスを始めると“お願い!もっとして!”とせがむんだ。素晴らしい体験だったよ。」


1990年4月、彼らのアルバムセールスは遂に50万枚を突破し、ゴールドディスクが授与されることとなる。
バンドメンバーは当時の所属先レコード会社(EMI)に招待されて、ニューヨークで行われたゴールドディスク授与式に出席した。

「EMIからそんなことをされても俺は嬉しくもなんともなかった。腹黒い感じが見え見えだったよ。会所の思惑が渦巻く空気は実に居心地悪かったけど、俺達はメンバー同士でハグし合いお互いを称え合った。」


その後、EMI、ソニー、ワーナーという大手3社による“レッチリ争奪戦”が繰り広げられていったという…


<引用元・参考文献『スカー・ティッシュ―アンソニー・キーディス自伝』アンソニー・キーディス(著)ラリー・スローマン(著),新井崇嗣(翻訳)/シンコーミュージック>

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