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越路吹雪のFirst Step〜宝塚歌劇学校での日々、エデイット・ピアフとの運命的な出会い

2019.03.09

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越路吹雪。
彼女は、日本の元号が「昭和」になる前の「大正」の13年(1924年)に生まれた。
戦中から戦後は宝塚男役スターとして活躍し、1951年に宝塚を退団した後は“日本のシャンソンの女王”と呼ばれるまでとなった稀代の歌手である。
彼女にはいくつもの浮世離れした逸話が残っており、その“伝説”は今も語り継がれている。
そんな日本を代表する歌姫が、どんなきっかけでシャンソンを歌い始めたのか?
彼女の“First Step(はじめの一歩)”とも言える時代のエピソードをご紹介します。



彼女が宝塚歌劇団に入ったには昭和12年(1937年)13歳のときである。
ちょうどその頃といえば日中戦争が起き、日本は大陸侵略戦争に突っ走っていたときだった。
長野県飯山高等女学校でも落ちこぼれ組だった彼女が、算術、国語、地理、歴史の試験を受けて約13倍の競争率の宝塚歌劇学校に入学したことは奇跡のような出来事だった。
彼女が宝塚を受験した理由は単純だった。
学校の成績が悪く、本人も勉強が嫌いで、それを心配した父親がすすめたからだという。



「あの子は歌や芸事が好きだから、どこかそういう道に進ませたい。」




父親の期待もむなしく…宝塚歌劇学校での成績は見るも無惨なものだった。
同期生だった大路三千緒の話によると、日舞・英語・国語がまるで駄目でも、彼女の体の柔軟さは誰にも負けなかったという。
廊下などでいつも脚を上げる練習をして、アクロバットと追分節を唄うのが得意で、寄宿舎では人気者だった。
1939年の春、そんな“落ちこぼれ”の彼女も“ラスト・コーちゃん”の異名をもらいながら本科を卒後した。
宝塚歌劇学校を卒業して初舞台を踏んだばかりの彼女は岩谷時子と出会う。
これが一生を決定づける運命となり、その日から親友であり、盟友であり、パートナーという関係が始まった。
当時、宝塚歌劇団の編集部員だった岩谷はこんな言葉を残している。



「あの人は…とにかく醒めた人で“私はスターになれる人間じゃない。スターになる人は初めからそういうように生まれている人”と言っていたんです。先輩にしっかりしなさい!といわれても、あの人は阪急百貨店のライスカレーを食べに行くのが生きがいみたいで、エンジンのかかるのが遅い人でした。」




宝塚の舞台に立つ彼女にファンがつきはじめた。
彼女のファンには大人のファンが圧倒的に多く、当時、女学生のファンが多かった宝塚では“珍事”であった。
当時、煙草を吸い酒も口にするようになった彼女は一日も早く“清く・正しく・美しい”宝塚の世界から抜け出したいと思っていた。
女でありながら男の格好をして舞台に出る。
そして陶酔しきった客席のファンから、熱狂的な視線と拍手喝采を浴びる日々…



「私は女よ。ただ男のお面をつけているだけ。」




その後、シャンソン歌手になってから彼女が歌い続けた「恋人への愛」「憎しみ」「悲しみ」「嫉妬」…越路吹雪は“女そのもの”だった。
宝塚で積み重ねた芸が、外の世界でも芸として通用するものなのかどうか?
彼女の葛藤の日々は続いた。
岩谷時子は、1953年に越路(当時28歳)が初めてフランスに一人旅をした際に送ってきた手紙を大切に保管していたという。



「私は日に二、三回ずつ腹を立て、毎日パリの何かしらに抵抗し、自分の何かしらと闘って過ごしています。このまま長くパリにいてキャバレー歌手になって暮そうかと思うけれど、フランスのシャンソンはフランスだけのもの。そのメロディーは世界で歌われていても、フランス人の歌うシャンソンは彼らの生活から生まれた歌なんだからフランスだけのものよ。」




当時、まだ“越路節”も未完成であったと思われるが、彼女はこの頃からすでに“しょせん本物のシャンソンはフランス人にしか歌えないもの”と悟り、自分流のシャンソン、日本のシャンソンを歌ってやろうとしたたかに模索していた。
その後、何度もパリへ足を運んだ彼女は、本場のシャンソンに刺激を受けながら、自問自答を繰り返し、歌に磨きをかけてゆく。
そんな姿を一番身近で見ていた岩谷は、当時のことをこう振り返っている。



「彼女が本格的にシャンソンを唄おうとしたのは、1953年にエディット・ピアフの歌を聴いてからです。当時、ピアフはパリで全盛期を迎えていました。ピアフとの出会いが越路吹雪という歌手の人生に重い意味を持たせたと言ってもいいでしょう。」





その当時の日記が彼女のショックを物語っている。



「ピアフを聴く。語ることなし。私は悲しい。夜、一人泣く。悲しい、淋しい、私には何もない。私は負けた。泣く…初めてパリで。」




越路はその後、ピアフが歌ったシャンソンの楽譜を片っ端から買い込んだという。
彼女が他界した後に見つかったその楽譜には、所々に簡単な訳詞や、衣装のデザインが書き込まれていた。
それは当時、彼女がパリのホテルで書いたものらしい。
こうして越路吹雪はエディット・ピアフと出会ったのだ。
以来、彼女はパリに行くたびにピアフの舞台を観る。
それはピアフが晩年、肉体も声も衰えてしまった時期まで…最後の最後まで客席で見届けたという。

<引用元・参考文献『聞書き 越路吹雪 その愛と歌と死』江森陽弘著/朝日新聞社>

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