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エルトン・ジョンのFirst Step〜ロンドンでの下積み時代、ようやく手にしたレコード発売のチャンス

2019.04.06

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彼が15歳を迎えた1962年、両親は離婚を決意する。
彼にとってはとても辛い時期だった。
両親の離婚は悲しい出来事だったけれど、彼にとっては独裁者だった父の存在に怯えていた頃よりも家庭でリラックスできるようになったのも事実だった。
当時、彼は地元のグラマースクールとロンドンにある名門の音楽家養成学校(王立音楽院)学校に通いながら、スチュアート・ブラウン(Vo)を含む友人達と4人組のバンド“ブルーソロジー”を結成する。
モータウン系のサウンドを中心に、週末の夜だけホテルのラウンジで演奏をし始める。
彼はツイードのジャケットやタートルネックのセーターなど、ビートルズを真似たような服を着て、伊達眼鏡をかけてピアノを弾いた。
それは当時彼が英雄のように崇めていたバディ・ホリーへのリスペクトだったという。

1965年3月5日、彼はグラマースクールを中退する。
それは18歳の誕生日を迎える3週間前のことだった。
時を同じくして、彼はロンドンのウエストエンドにある音楽出版社「ミスル・ミュージック」で見習い社員の職を得ていた。



「音楽にたずさわりながら働く日々は楽しさとはほど遠かった。好きな仕事をしているという充実感もなく、日中のほとんどはオフィスでダラダラと過ごしていた。そして夜になるとブルーソロジーのメンバーとしてホテルやキャバレーで細々と演奏しながら、レコード会社から注目される日が来るのを辛抱強く待ち続けたたんだ。」




そんな日々の中、彼に願ってもないチャンスがおとずれる。
その年の7月、ブルーソロジーのデビューシングル「Come Back Baby」がフォンタナレコーズからリリースされる。
翌1966年の年明けには、2ndシングル「Mr Frantic」が発売され、同曲のクレジットには“作曲者/リードボーカル”としてReg Dwight(=エルトン・ジョン)の名前が印刷されていた。
これら二枚のシングルは、イギリスの音楽評論家たちから好意的な評価を得たにも関わらず、世間からはあまり注目されなかったという。




同年(1966年)の年末から、彼はロッド・スチュアートをはじめローリング・ストーンズやジェフ・ベックなど多くの英国ミュージシャン達にとって“兄貴分的”な存在として君臨していた歌手ロング・ジョン・ボルドリーのバック演奏をつとめるようになる。
そのことをきっかけに、彼の名はイギリスの音楽シーンで知られるようになってゆく。
「エルトン・ジョン」というステージネームは、ロング・ジョン・ボルドリーの名前をモチーフにして、当時、自ら付けた名前だという。



「名前を知られる一方で、僕は強い劣等感に悩まれていたんだ。なにしろ体重が90キロ近くもあるんだから。それに本気で歌いたくなっても、オルガンの前でひたすら鍵盤を叩いてなきゃいけない。ストレスが溜まる一方だったよ。」





ロング・ジョン・ボルドリーの音楽性は、彼が目指すものとは違っていた。
しだいに彼は、ロング・ジョンのバンドに居心地の悪さを感じるようになり…どうにも耐えられなくなるとかんしゃくの発作までおこすようになったという。



「僕は太りやすい体質だから、常にダイエットが欠かせなかった。体重を落とすために痩せ薬も常用していたんだ。そうした特殊な事情が精神的なストレスになって、なおさら気分を悪化させてしまっていたんだ。でも、その翌年に僕は運命的な出会いを果たしたんだ。そう、バーニー(トーピン)と会ったのは僕が二十歳を迎える年だった。」




<引用元・参考文献『伝記 世界の作曲家(14)エルトンジョン』ジョン・オマホニー(著),橘高弓枝(翻訳)/偕成社>

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