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ビリー・ホリデイのFirst Step〜路上生活ギリギリの夜に手に入れた歌手へのチャンス

2019.04.20

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ビリー・ホリデイことエレオノーラ・フェイガンは、1915年にアメリカ合衆国のフィラデルフィアで、母サディ・フェイガン(当時19歳)と父クラレンス・ホリデイ(当時17歳)のもとに産まれた。
ジャズギタリストだった父親は、夜はナイトクラブで演奏し、昼は街頭で流しをして生活をしていた。
そのため彼女は、幼少期をほぼ母親と二人で過ごしている。
まだ若かった母サディは、娘の面倒をしっかりみることもなく…彼女は母方の親族に委ねられるようになる。
サディは次々と職を変え、その合間を縫ってニューヨークを訪れては売春を重ねていたという。
親族の家を転々として生活していた彼女にとって、幼少期の思い出は辛く寂しいものでしかなかった。
そして1928年、サディは彼女を手元に引き取る。

「ママと私がようやくハーレムで一緒に暮らすようになった頃、デフレがやってきたの。不景気は我々にとって珍しいものではなかった。貯めていたわずかなお金は瞬く間に消えてしまったわ。」


サディは娘を売春宿に預けて再び売春を始めるが、1929年には母と共に彼女までが売春の容疑で逮捕されたという記録が残っている。
やがて彼女は禁酒法時代のハーレムの真ん中で、非合法のナイトクラブに出入りするようになる。
この時期こそが、彼女の歌人生において“はじめの一歩”となってゆくのだ。
母子で身を寄せ合う生活は苦しく、とうとう家賃が溜まり過ぎて…二人はアパートからの立ち退き命令を受けることとなる。

「本当に寒い夜だったわ。絶望的な気持ちになっていた私はコートも着ずに通りを歩きながら必死で仕事を探し歩いた。その頃133丁目は、クラブ、レストラン、カフェが立ち並んでいて、いつも浮かれている街だったわ。そして私は“ポップス&ジェリーズ”というナイトクラブに辿り着いたの。」


彼女は扉を押し開けて、店の中に入り「ボスに会いたい」と一言。
奥の部屋から出てきたジェリーに対して、自分はダンサーだと偽り「ここで働きたい」と懇願した。

「私は2つのステップしか知らなかった。ジェリーは私をピアノの前に連れて行くと、私に踊れと言ったわ。私は同じステップを繰り返しながら惨めに踊った。」


「無駄な時間を使わせないでくれ!俺は忙しいんだ!」

「つまみ出されそうになりながら、私は泣きながら“仕事を下さい!”と頼み続けた。同情してくれたピアニストが、くわえていたタバコをもみ消して、私に問いかけてきたの。」

「あんた、歌は唄えるかい?」

「もちろん唄えるわ!」


母親を路上に放り出さないためには、どうしてもお金が必要だった。
彼女はピアニストに「Trav’lin’ All Alone(ひとり旅)」を頼んで、客がいるにも関わらず、ぶっつけ本番で歌い出した。
次の瞬間…クラブ中がシーンと静まり返った。


「もしも誰かがピンを落としたら、爆弾のように聞こえていたかもしれない。私が歌い終えた時、客は皆ビールを前に泣いていたわ。私はその一曲でフロアーから38ドルのチップを拾いあげたわ。」


彼女は翌日から週給18ドルで、ポップス&ジェリーズに歌手として出演することなった。
その歌声は瞬く間に評判となり、彼女は数ヶ月で安定した生活を取り戻すこととなる。

「私は稼いだお金で、最初に模造ダイヤを散りばめた洒落たズロースを買ったわ。私は肉体を見せるのが嫌だった。身体に傷があるわけではないけど、そういうことで客の目を引くやり方が嫌いだったの。」


彼女が歌う度に、客席からはこんな囁き声が聞こえてきたという。

「あの娘は、自分のことを貴婦人(レディ)だと思い込んでいるんだよ。」


後に彼女はレスター・ヤングから“レディ・デイ”という愛称を付けられることになる…

<引用元・参考文献『奇妙な果実 ビリー・ホリデイ自伝』ビリー・ホリデイ(著)油井正一(翻訳)大橋巨泉(翻訳)/晶文社>

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