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エルトン・ジョンとバーニー・トーピン〜出会ったその日に意気投合したソングライティングコンビ

2019.05.04

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1966年の年末から、当時19歳だったエルトン・ジョンはロッド・スチュアートをはじめローリング・ストーンズやジェフ・ベックなど多くの英国ミュージシャン達にとって“兄貴分的”な存在として君臨していた歌手ロング・ジョン・ボルドリーのバック演奏をつとめるようになる。
そのことをきっかけに、彼の名はイギリスの音楽シーンで知られるようになってゆく。
「エルトン・ジョン」というステージネームは、ロング・ジョン・ボルドリーの名前をモチーフにして、当時、自ら付けた名前だという。

「名前を知られる一方で、僕は強い劣等感に悩まれていたんだ。なにしろ体重が90キロ近くもあるんだから。ロング・ジョンの音楽性は、僕が目指すものとは違っていたし…ストレスが溜まる一方だったよ。でも、その翌年に僕は運命的な出会いを果たしたんだ。」


バーニー・トーピンと出会ったのは、彼が二十歳を迎える年だった。
それは1967年の7月の出来事だった。
17歳だったバーニー・トーピンは、読書にのめり込んでいた。
イングランドの東部リンカンシャーのアンウェック村とスリーフォードタウンの中間に位置する電気も通らない農場で育ったバーニーは、子供の頃から本を読むことが大好きだった。
格調高い文学作品から児童書「くまのプーさん」(A・A・ミルン)、アメリカ西部開拓時代の英雄ビリー・ザ・キッドの物語など、ジャンルを問わず様々な本を読みあさっていた。
やがてバーニーは本に刺激されて、自らも詩(ポエム)を書くようになる。
ところが、15歳、16歳、17歳とラジオなどでロックやポップスを聴くようになる頃には「自分が書いているのは詩でなく歌詞だ」と気づいたという。
バーニーが表現する詩世界は、ボブ・ディランやビートルズなどに代表される、ポピュラー音楽の歌詞にピッタリだった。
ある日、バーニーは『ニュー・ミュージカル・エクスプレス』紙に掲載されていた小さな募集広告を目にする。

「有能なソングライターとタレントを求む!(リバティ・レコーズ)」


同時期に、その広告をエルトンも目にしていたという。
バーニーは何編かの歌詞を送ってみた。
するとロンドンのリバティ・レコーズから「一度本社に顔を出してみませんか?」という趣旨の返信が届いた。
エルトンもまた何曲かのデモテープを送り、同じような返信をもらっていた。
20歳のエルトンと17歳のバーニーが初めて顔を合わせたのは、ロンドンにあるリバティ・レコーズのスタジオだった。
たちまち二人は打ち解け合ったという。
モータウンサウンドやビートルズ、ボブ・ディランなどの音楽や経歴に詳しい点でも共通していた。
エルトンはその時のことを鮮明に憶えていた。

「あの時のバーニーは僕にとって天使のように思えたよ。二人とも内気だったけど、ぴったりウマがあった。僕は一人っ子だったけど、まるで本当の弟が出来たような気分になったのを覚えているよ。」


バーニーもエルトンとの出会いについて、懐かしく回想している。

「最初から相性の良さを直感したよ。たぶん二人とも孤立していたからじゃないかな。僕は初めて都会に出てきた田舎者。彼はロンドンの生活には慣れていたし、バンドの巡業などで広い世間を見ていたけれど、純真でナイーブな心は疲れ果てていた。」


二人は会ったその日のうちにソングライティングコンビを組むことを約束していた。
まずはお互いに試作を書くことにした。
上手くいっても、そうじゃなくても…二人ともゼロから出発するつもりでいたので、失うものなど何もなかった。


バーニーはリンカーンシャーの農場に戻るとエルトンのために書いた歌詞をすべてまとめて郵送した。
エルトンは当時まだロング・ジョン・ボルドリーのバック奏者や、以前から組んでいたバンド(ブルーソロジー)に所属しながら演奏活動をしていたが、その一方でバーニーの歌詞に曲をつけるための作業に入った。
曲が完成したら、歌手と演奏者を探してレコーディングする予定でいた。
チームを組んだばかりの新人ソングライターは、自分たちがどういう形で売り込むにしても、まずは専門設備が使えるスタジオで曲をレコーディングし、デモテープを作る必要があった。
エルトンは当時の状況について、こんな風に回想している。

「僕らはとても若かった。とてつもなくお大きな希望をいだき、楽しみながら曲を書いたよ。だけど、デモテープを作るどころか…スタジオを借りるのも難航したんだ。曲は完成したものの何も進まなくなり、僕らはすっかり落ち込んでしまった。」


ところが、エルトンが以前音楽出版社で見習い社員をしていた頃に知り合った友人が、彼らのためにレコーディングスタジオを手配してくれることとなった。
二人にとってさらに幸運だったのは、その友人がレコード会社DJM(ディック・ジャームズ・ミュージック)の経営者ディック・ジャームズのスタジオで働いていたことだった。
ディック・ジャームズといえば、当時イギリスのポップミュージック界の大物で、ビートルズを発見したことでも有名な人物だった。
条件は一つ、「スタジオを使用するのと引きかえに、完成したデモテープを最初に自分に聴かせること」それだけだった。
もちろん二人は条件を受け入れた。
完成したデモテープを聴いたディック・ジャームズは、若い二人の才能を評価し、週25ポンドで専属契約を結ぶことに決めた。
1967年11月、ついに二人はプロとして才能を認められたソングライターとして歩み始めたのだ。
バーニーは作詞に本腰を入れるためにロンドンへと移り住み、エルトンはブルーソロジーから脱退した。


<引用元・参考文献『伝記 世界の作曲家(14)エルトンジョン』ジョン・オマホニー(著),橘高弓枝(翻訳)/偕成社>

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