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木村充揮と内田勘太郎〜15歳の出会い、ブルースの魔力に惹かれていった二人

2019.06.22

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「内田と友達になって、どっちも好きな音楽が似とってね。そのうち内田の方がブルースにどんどんハマって行って、僕もだんだんブルースってええなぁと思うようになったんです。」(木村充揮)


1970年、木村充揮と内田勘太郎の二人は憂歌団を結成する。
バンド名は“ブルースバンド”の邦訳で、内田が考えたものだった。
最初は木村と内田の二人だけでカントリーブルースのカヴァーなどを中心に演奏活動をおこなっていたのだが、4年後の1974年に花岡献治(ベース)と島田和夫(ドラム)が加入し、4人編成の憂歌団が出来上がった。

二人が出会ったのは1969年。
共に15歳で大阪市立工芸高校の一年生だった。
木村も内田も中学の頃から、ビートルズやローリング・ストーンズ、ジミー・ヘンドリックス、クリームといったロックを聴いていたという。
木村は当時のことをこんな風に語っている。

「友達の家にごっついステレオがあって、ストーンズの“Tell me“を聴かせてもろた時にはビックリしました。ドーンと音が鳴って、まるで目の前で演奏しとるみたいで。その友達の家で、当時のロックを色々聴いたり、ギターを演奏したりしてました。当時はまだ自分が歌うことはなく、友達が歌う横でちょっとコードをなぞる程度だった。」



その友達から“お前は絵上手いし、工芸高校にしたらええやん!”と薦められたことをきっかけに、木村は大阪市立工芸高校(美術科)への進学を決める。
その教室で木村は内田と出会う。

「どんな音楽が好き?」


二人は、休み時間や帰り道に色んなことを話すようになり、お互いにレコードを貸し借りするようになる。
音楽が好きだからといって、二人は軽音楽部などの学校のクラブに入部することはなかった。

「ちょっとギターで遊ぼうや!」


二人が学校にギターを持って行くようになったのは1970年の秋、2年生の二学期の頃だった。
木村はメーカー不明のクラシックギターを紙袋に入れて持ち歩いた。
内田も同じくメーカー不明のガットギターを、ベラペラのビニール製ギターケースに入れて持ち歩いていたという。

「僕は中学時代にピアノとオルガンとクラシックギターを少し習っていた。内田は子供の頃から兄ちゃんのギターをいじっていた。ビートルズやストーンズ、ジミヘン、クリーム、ツェッペリンなどを聴くうちに、アドリブにある法則があることに気づいたらしい。ロックの向こうにブルースがあることを知った彼は、自己流でブルースを探求するようになったという。」


ちょうどその頃、日本のレコード店でもブルースのレコードが入手しやすくなってくる。
BBキング、フレディ・キング、アルバート・キングといった有名どころの他にも、マディ・ウォーターズやバディ・ガイ、エルモア・ジェイムスなど、それまで手に入らなかった黒人音楽の日本盤がリリースされ、彼らはますますブルースに夢中になっていく。
当時内田がブルースにのめり込んでいった様子を、木村は鮮明に憶えているという。

「彼はアルバイトしたり、昼めし代を貯めたり、時には授業料をネコババしたり(笑)とにかく小銭を作ってはレコードを買い漁り、聴き込み、演奏をコピーしていた。それをカセットにダビングして、僕にも聴かせてくれていたんだ。それはただのコピーではなく、そこには彼の個性があって、僕は“凄いなぁ!カッコいいなぁ!”と思っていた。」


程なくして、内田は“新しい武器”を手に入れることとなる。
近所のヤマハ楽器店がやっていたセールで、800円のアコースティックギターを購入したのだ。
内田はそのギターでエルモア・ジェイムスやマディ・ウォーターズのボトルネックを真似て、オープンチューニングやシタールチューニングをやるようになる。

「僕らは学校の実習室や友達の家で、毎日ギターを弾いて遊ぶようになった。僕が3コード弾いたら、内田が適当にブルースを弾いて、面白いやん!みたいにね。最初は内田が歌ってたんやけど、ある時、お前も歌ってみろって言われて歌ってみたら、ええやん!てなって…それからですわ、歌うようになったんは。」




<引用元・参考文献『木村充揮自伝 ~憂歌団のぼく、いまのぼく』木村充揮(著)/ K&Bパブリッシャーズ>

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