「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the STORY

ウィルコ・ジョンソンとフェンダーテレキャスター〜喉から手が出るほど欲しかった憧れのギターを手に入れるまで

2019.07.27

Pocket
LINEで送る

「そのテレキャスターはサウスエンドの楽器屋のショーウィンドウに陳列されていたが、とても手が出ないほどの高価だった。一般的な労働者階級の平均賃金が1週につき15〜20ポンドだった時代に、そのテレキャスターは107ポンドの値札をつけていた。俺は生まれて初めてこれほどまでに欲しいという対象に出会ってしまった。」


ウィルコ・ジョンソンの“相棒”と言えば、フェンダーテレキャスターである。
70年代初頭からイギリスのパブロックシーンを牽引し、後のパンクロックムーブメントの火付け役となったドクター・フィールグッドから始まり、ソリッド・センダーズ、ザ・ブロックヘッズ、そしてソロ名義での活動と、長いキャリアを通してロックシーンの大きな足跡を残してきた彼。
“マシンガンギター”の異名を持つ彼のピックを使わない鋭いカッティングとリードを同時に弾く奏法は、世界中で数多くのフォロワーを生み、世代を超えてリスペクトされ続けている。
そんな彼が“相棒”のフェンダーテレキャスターとどんな風に出会ったのか?
それは1960年代初頭、イギリスではローリング・ストーンズが世に出た時代だった。
ブライアン・ジョーンズが率いるそのバンドは、チャック・ベリーやボ・ディドリーといったアメリカのR&RやR&Bのアーティストに加え、マディ・ウォーターズやハウリン・ウルフを筆頭に、チェスレコーズに所属するブルースマンたちの音楽をルーツとする刺激的な演奏でファンを熱狂させていた。

「ストーンズのアプローチはまさに俺がやりたいことだった。ストーンズも良かったが、俺には偉大なギターヒーローがいたんだ。ジョニー・キッド&ザ・パイレーツでプレイしていたミック・グリーンだ。初めて彼のギターを聴いた日のことは今でも忘れられないよ。自宅のリビングでさり気なく耳を傾けていたラジオ番組で、DJが意気揚揚と彼らのシングル曲を紹介したんだ。次の瞬間“I’ll Never Get Over You”のイントロが流れて、俺は静止画像のように身体を一時停止させいたんだ。歯切れのいいコードプレイ、シンプルで力強いギターソロ、そしてリズムとリードのパートを一人二役でこなすテクニック。最高にイカしていたよ!俺は自分がやるべきことがはっきりわかったんだ!」



ミック・グリーンのプレイに関する俺の綿密な研究心は日を追うごとに加熱していった。
15歳のクリスマスに親にねだって買ってもらったワトキンス・レイピアというイギリス版フェンダー・ストラトキャスターのコピー品を弾いていた彼にとって、どうしても物足りないものが一つあった。
それはミック・グリーンが使用していたフェンダーテレキャスター。
当時、イギリスでビートルズ世代として名を上げたバンドは、皆ギブソンやリッケンバッカーを使用していた。
彼が狙っていたフェンダーテレキャスターは、当時人気があったわけでもないので、長い間ショーウィンドウ内で売れ残っていたという。
在庫を早く換金しようとする楽器屋は、当初の107ポンドから100ポンドへ、そして90ポンドへと徐々に価格を下げてきた。
ある日、彼は楽器屋にこんな話を持ちかけた。

「頭金を10ポンド預けるよ。そして毎週できる限り支払いを続けるよ。だからそのフェンダーテレキャスターを取り置き扱いにしてくれないか?」


渋々承諾した楽器屋は、彼に支払いカードを発行した。
毎週土曜日になると彼は店に出向き、切り詰めた食費や交通費など、とにかく有り金をすべて払い込んだ。

「俺が頑張って貯めた数ポンドとシリングとペンスを差し出すと、店員がテレキャスターを倉庫から出してきてくれた。俺は閉店時間がくるまでそいつをプレイしたり、じっと見つめたり、ペグやボリュームノブをいじったりしながらミック・グリーンになりきった時間を過ごしていた。やがて閉店時間がくるとギターは倉庫に戻され、俺はバス代を節約するため歩いて家に帰った。」


そんな日々を送る中、学生時代にバンドを結成して地元の労働者向けのパブなどで演奏していたが彼だったが、ニューカッスル大学で英文学を学ぶためにしばらくギターから遠ざかることとなる。
教師になる夢を抱いていた彼は、在学中(1968年・当時21歳)にティーンエイジャー時代からのガールフレンド、アイリーン・ナイトと結婚し2人の息子をもうける。
妻アイリーンの理解と援助のおかげで、21歳になった彼はとうとう念願のフェンダー・テレキャスターを手に入れることとなる。
それまで彼が楽器屋に支払った額は、まだ提示された半額にも達していなかった。
そんな彼を救ってくれたのがアイリーンだった。
彼女の郵便貯金の残高が、テレキャスターの支払い残高とピッタリ一致していたのだ。
彼女は実家の親に黙って口座から預金を引き出し、彼に手渡した。
翌日からフェンダー・テレキャスターは“彼のもの”となった。
大学卒業後、彼はインドとネパールを放浪し、帰国後、地元の高校で母国語教師をしていたという。
1971年(当時24歳)、彼はリー・ブリローやジョン・B・スパークスに誘われドクター・フィールグッドを結成することとなる…


<参考文献『不滅療法〜ウィルコ・ジョンソン自伝〜』ウィルコ・ジョンソン(著))石川千晶(翻訳)/リットーミュージック>

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the STORY]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ