1966年7月31日、モダンジャズのピアノスタイルを確立した天才奏者、バド・パウエルがニューヨーク市内の病院にて死去した(享年41)。死因は結核、栄養失調、アルコール中毒とされている。
チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーらが生み出したビバップスタイルのジャズをピアノの分野に定着させ、ピアノ、ベース、ドラムスによる“ピアノトリオ形式”を創始した人物として知られている。
1924年9月27日、バド・パウエルはニューヨークで生まれた。祖父はフラメンコギタリストで、父はストライドピアニスト、兄はトランペット奏者という音楽一家で育ち、6歳からピアノを習いクラシックを学んだ。
モーツァルトに夢中だった少年は、ジャズに傾倒し始めたことをきっかけに15歳でハイスクールを中退、兄のバンドと共に小さなクラブなどで演奏活動を始める。20代を迎えた1940年代の半ばに頃になると、ニューヨークの52丁目あたりでは誰もがバドのことを天才と認めるようになっていた。
1947年と1953年録音の初リーダー作『Bud Powell Trio(バド・パウエルの芸術)』は、モダンジャズ史における歴史的な傑作として知られている。
ある日、ニューヨークにあるモダンジャズの発祥の店ミントンズ・プレイハウスで(後に特別な親友となる)、セロニアス・モンクと出会う。そこでモンクから音楽理論を学んだと言われている。
それは1945年の出来事だった。
モンクはビバップジャズドラマーの先駆者の一人として知られるマックス・ローチと共に、数日間に渡るコンサートを開催した。ペンシルベニア州フィラデルフィアで行なわれたそのステージは、戦中にも関わらず連日大いに盛り上がったという。
そんな中、忘れることのできない事件が起きる。ある夜の終演後、ミュージシャンたちが楽器をケースに仕舞っている時に、警官たちがクラブになだれ込んできてモンクの行方を捜した。
モンクは証明書(アメリカの劇場や飲食店での営業演奏を許可するキャバレーカード)の提示を拒んだので、その場で拘束されてしまう。その様子を見ていたバド・パウエルが、会場の戸口を塞いで警官たちに向かって食いかかった。
「よせ! あんたたちは間違ったことをしている! あんたたちは世界で一番偉大なピアニストを虐待しているんだぞ!」
次の瞬間、バドの頭に勢いよく警棒が振り降ろされた。警官たちに手首を掴まれたままモンクとバドは連行され、そのまま留置所に放り込まれた。
モンクにかけられていた容疑は麻薬の不法所持だった。しかし、彼に麻薬癖はなく、後の調べでは不当逮捕・冤罪だったという説もある。
この事件によってモンクはキャバレーカードを没収されてしまう。この不当な逮捕による留置場収容から釈放された直後、パウエルは頭痛を訴え始める。
病院で診察を受け、それからの3ヶ月間を病室のベッドで過ごすことになった。そこで様々な精神活性薬物を投与され、ショック療法も受けた。
「もしパウエルがそこに介入してくれなかったら、自分だって同じような目に遭わされていただろう」
モンクは、この不運に見舞われた親友のために、「イン・ウォークト・バド」「52番街のテーマ」「ブロードウェイのテーマ」という曲を書いた。
バド・パウエルの芸術家としてのキャリアはまだ始まったばかりだったが、この事件を境に終生、精神的な疾患に悩まされることになったのだ。
50年代中期以降は、心の苦しみから逃れるように麻薬やアルコールに溺れるようになる。1960年代初頭、アメリカではジャズ不況が訪れ、多くのジャズメンがヨーロッパに活動の場を移すようになる。バドもこの時期に仕事を求めてパリに渡った。
良き仲間の献身的な助けもあり、どうにか麻薬やアルコール中毒を克服し、パリでの音楽活動を通じてかつての輝きを取り戻していくが、すでに身体はボロボロの状態だった。
そして1966年、ニューヨークに戻って数ヶ月後にこの世を去るのだった。
映画監督のベルトラン・タヴェルニエは、パリ時代のパウエルの演奏活動のエピソードを元に、映画『ラウンド・ミッドナイト』(1986年公開)を制作している。
<引用元・参考文献『セロニアス・モンクのいた風景』編者・訳者/村上春樹(新潮社)>
バド・パウエルの芸術
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