ビル・エヴァンスは、27歳を迎えた1956年頃を境に、ジャズピアニストとしての腕をめきめきと上達させたと言われている。一体どうしてこの時期だったのだろう? その“成長”には、クラリネット奏者トニー・スコットからの強い影響があった。
トニーは、本名を“アンソニー・シアッカ”といい、ニュージャージー州モリスタウンのシチリア人街生まれの男だった。年はビルよりも8つ年上だった。50年代のニューヨークで活躍した、モダンジャズ派の中でも大いに尊敬された折衷主義の大御所、作曲家兼教育家としても知られたステファン・ウォルブに師事していたジャズメンだ。
お互いにクラシックを学んでいたという共通する背景が、ビルとトニーを結びつけた。ジャムセッションをこよなく好んだトニーは、持って生まれた大胆さで、なかば強引にセッションからセッションを渡り歩くという形で40年代を過ごしたという。
ニューヨーク52番街の路上や、アップタウンにあったミントンズ・プレイハウスで繰り広げられていた一晩中続くセッションが、トニーの“生き様”でもあった。
そんな先輩ジャズメンが率いるカルテットやツアーに参加しながら、ビルはピアノのテクニックを磨いていった。なぜならトニーはピアニストでもあり、ビリー・ホリデイやハリー・ベラフォンテ、そしてサラ・ヴォーンなどの編曲も手掛けていたので、ビルの演奏のクオリティーの高さや才能を一発で見抜いた。トニーはビルを“一流のジャズメン”に育てようとして、時には厳しく接した。
「最初に会ったのは彼がまだ二十歳くらの頃だっかかな…誰よりも早くビルの才能を見出したのは俺だよ。何とか彼を一人前にしようとガミガミ言い続けてきたよ」
この年、ビルはリバーサイドレーベルからのスカウトを受け、初のリーダーアルバムとなった『New Jazz Conceptions』を発売する。だが、このデビューアルバムは500枚しか売れなかった。
ニュー・ジャズ・コンセプションズ
翌1957年には、二人の名義で『A Day in New York』という2枚組みアルバムを発表している。それは、当時まだビルが“新人ピアニスト”だった頃の初々しくも貴重な音源として、ジャズファンに愛聴されている。
その後、ほどなくしてマイルス・デイヴィスが自分のバンドの新しいピアニストとして、ビルを参加させようになる。マイルスはビルに「モー」というニックネームまでつけて可愛がり、当時自身が取り入れ始めたばかりの“モード手法”(コードに縛られることなくより自由なアドリブを弾く画期的な演奏スタイル)を教える。それは中世ヨーロッパの教会音楽で用いられていた手法をジャズに応用しようという試みだった。
そして“マイルスのモード時代の最高傑作”と語り継がれるアルバム『Kind of Blue』を録音する。クレジット上では全曲マイルス・デイヴィス作曲となっているが、A面の3曲目に収録されている「Blue In Green」は(実際は)ビルの作品である。
ビルはマイルスにラフマニノフやラベルなどのクラシックを聴かせることで、モードの完成のために大きなヒントを与えたのだ。
<引用元・参考文献『ビル・エヴァンス〜ジャズ・ピアニストの肖像〜』ピーター・ペッティンガー(著)、相川京子(訳)/水声社>
Kind of Blue
●Amazon Music Unlimitedへの登録はこちらから
●AmazonPrimeVideoチャンネルへの登録はこちらから