1982年のデビューから約40年以上経った今も進化をし続け、トップの座に君臨し続ける “クイーン・オブ・ポップ”。
マドンナは27歳の誕生日に、俳優のショーン・ペンと結婚式を挙げた。二人はどんな風に出会い、どんな経緯で結ばれたのだろう?
19歳で単身ニューヨークに移り住み「神よりも有名になる!」と誓ったマドンナの27歳のエピソードをご紹介します。
──1978年、19歳だったマドンナは、まだ1年半しか通っていないミシガン大学を突如として中退した。
「大学で学べるものは全て学んだわ! もっと先に進まなきゃ!」
“スターになる”という夢の実現のため、自分が何をすべきかを考えての決断だった。そして同年7月、着替えの入ったボストンバックを抱えて、35ドル(当時の日本円で約¥4,000)の現金を手に、故郷のデトロイトを後にニューヨークへと旅立った。
自分の夢を叶えるための地に降り立ったが、行くあてがあるわけでもなく、とりあえずタクシーに乗ってこう言った。
「一番華やかな場所へ行って!」
それがすべての“始まり”だった。
運転手が向かったのは、タイムズスクエア。圧倒的な人の多さと、きらびやかなネオンに感動したマドンナは、心の中でこう決意したという。
「神様よりも有名になる!」
そして1980年に入り、自ら作った曲を当時のミュージックシーンを牽引していたナイトクラブ『ダンステリア』の人気DJに持ち込むようになる。そして、遂にその才能を理解するレコード会社が現れる。
それは当時、プリンスやヴァン・ヘイレンなどの有名アーティストを抱えていたワーナー・ブラザース・レコードだった。その契約内容は5000ドルと一曲ごとの印税、さらに出版料として1000ドルを支払うというものだった。
約5年前。わずか35ドルを握りしめて、スターを夢見てニューヨークにやってきた19歳の少女が、とうとう24歳にしてレコードデビューへの切符を手にしたのだ。
1982年10月にリリースしたデビューシングル「Everybody」は、即座にビルボードのダンスチャートにランクイン。レコード会社は、1stアルバムの製作に取り掛かかった。
マネージャーには、マイケル・ジャクソンを担当していたフレディ・デマンが起用され、マドンナがスターへの階段を駆け上ってゆく条件はすべて準備された。
1985年、俳優のショーン・ペンと結婚する。二人の挙式はマドンナの27歳の誕生日(8月16日)に合わせて行なわれた。ショーンの親友でもある映画監督のジェームズ・フォーリーは、初めてマドンナを意識した日のことを鮮明に憶えていた。
「1984年の年末、ショーンは当時の恋人(エリザベス・マクガヴァン)と別れて、うちに居候していたんだ。ある夜二人でMTVを観ていたら、マドンナの“Like a Virgin”が流れ出した。彼女の新曲(Material Girl)のPVの助監督を友達の姉貴がしているんだ、とショーンが言った。ハリウッドの撮影所はすぐ近くだったから、二人で彼女を見に行くことにしたんだ」
当時のショーン・ペンは、前途有望なハリウッドの“ブラット・パック(小僧っ子集団)”の一人として、すでに名を成していた。“ブラット・パック”とは、80年代の青春映画で活躍した若手俳優・女優たちにつけられた呼び名で、ショーンの他にチャーリー・シーンやデミ・ムーア、マット・ディロン、トム・クルーズ、ロブ・ロウ、エミリオ・エステベスらも含まれた。
マドンナと出会った頃のショーンは、映画『タップス』(1980年)で反抗的な陸軍士官候補生役や、『初体験リッジモンド・ハイ』(1982年)でマリファナ漬けのサーファー役などを好演し、高い評価を受けていた。
ショーンは仕事上でも私生活でも気が短いことで知られていたが、そこがまた女性たちの恋心をくすぐっていたという。一時期はブルース・スプリングスティーンの妹パメラと婚約をして世間を賑わせたこともある。
当時24歳だったショーンは気取り屋で、自分からマドンナの撮影現場に出かけようと言い出したにもかかわらず、当初はまったく興味がない素振りをしたという。
一方、当時のマドンナは頭の痛い問題を抱えていた。仕事は順風満帆だったが、私生活は惨たんたる状況だった。それまでの二年間は恋人のジェリービーン(DJ/ミキサー/プロデューサー)が精神的に彼女を支え、公私共に助けてくれていた。
しかし、ジェリービーンも野心家だったので、互いに衝突し、対立することも少なくはなかった。二人の関係が修復不可能になりつつある時に、マドンナは身籠ったことに気づく。子供は産まないと決意したものの、やはりそれは重く苦しい選択だった。
新曲のPVでは、マリリン・モンローを連想させるサテンのドレスに身を包んで、浮かれ騒ぐ演技をしつつも、心の中では悶々としていた。程なくしてマドンナはジェリービーンとの関係に終止符を打って、ショーンと一緒に過ごすようになる。
二人の関係を一番側で見ていたショーンの親友であるジェームズ・フォーリーは当時の様子をこう語る。
「最初のうち、ショーンは彼女にあまり興味を示さなかった。しばらくは冴えないデードをしていたよ。彼らはだんだんと相手に夢中になったんだ。だけど当時はお互いに結婚するなんで考えてもみなかったはずだよ(笑)」
ショーンとの出会いは、マドンナにとって大きな転換点となった。ショーンはマドンナの擁護者となったが、同時に嫉妬深く傲慢な男でもあった。気まぐれで、トラブルをよく起こし、暴力的な部分もあった。
二人が結婚を意識した時、ショーンは自分が忌み嫌うマスコミの目がどれだけ自分達に注がれることになるか、まだ十分に認識できてなかった。ショーンは当時を振り返ってこんな発言をしている。
「彼女は世界一の大スターになろうとしていた。僕と言えば、映画を作りながら、ひっそりと暮せればそれで十分だった。あの頃の僕は短気な若僧だったんだ。心の中に悪魔がたくさん棲んでいた。あの頃の僕と暮せる人間なんて、誰もいなかったと思うよ」
二人が結婚式の日取りを決めた直後、マドンナのヌード写真をプレイボーイ誌とペントハウス誌が大々的に掲載した。それはニューヨークで下積みをしていた時代に、生活費のためにヌードモデルのアルバイトをしていた時の写真だった。
マドンナは、これでまた知名度が上がったと内心喜びつつも、昔の写真がほじくり出されたことに不快感をおぼえ、蒸し暑い7月に開催されたチャリテーコンサート(LIVE AID)のステージでは、わざと野暮ったい服を何枚も重ね着して登場した。
ヌード騒動も収束して、次に彼女が世間を騒がせたのはショーン・ペンとの結婚式だった。二人は、カリフォルニアにあるマリブビーチ近くの崖の上にある屋敷で結婚式を挙げた。それはマドンナの27歳の誕生日に合わせた特別なパーティーだった。
アンディ・ウォーホル、クリストファー・ウォーケン、シェール、ダイアン・キートン、キャリー・フィッシャー、マーティン・シーンなど豪華な顔ぶれが出席した。花嫁マドンナは、光沢をおびた純白のドレスに身を包み、招待客の前に姿をあらわした。
細心の注意をはらって厳重な警備体制を敷いたにもかかわらず、式場は事前にマスコミやパパラッチたちにリークされていた。崖の上にある式場の上空には、望遠レンズを積み込んだヘリコプターが数機飛来していた。
へリコプターの騒音で牧師の声がまったく聞こえなくなり、一時中断される場面もあったという。参列していたミュージシャンのビル・マイヤーズは、その時に異様な光景をこう語る。
「ヘリが飛んで来たとき、僕はマーティン・シーンの隣りに立っていたんだ。彼は映画“地獄の黙示録”の撮影経験者なので、反射的にたじろぎ、身体を硬直させていたよ。マドンナは怒鳴りだし、ヘリに向かって中指を立てていた。ショーンが家の中に駆けこんで、ショットガンを取ってきたんだ。二人が本気だったのがひどく滑稽に見えたよ。演技じゃなかったんだから!」
式が再開されて、マドンナは結婚の誓いを立てる時に神妙な顔をしていたが、しまいには笑いだしたという。酒に酔っていたショーンは、隠しカメラを忍ばせて勝手に押しかけてきたイギリス人カメラマン、キップ・ラーノと取っ組み合いの喧嘩をしだして髪の毛を乱していた。
後日、マドンナはその日のことを振り返って一言。
「とんだ騒ぎになっちゃった! こんな話、映画で見たこともないわ! ホントに信じられない(笑)」
参列していたアンディ・ウォーホルも一言。
「人生で一番スリリングな週末だったよ」
翌1986年4月、27歳のマドンナは新作アルバム『True Blue』から、夫のショーン・ペンが主演した映画『ロンリー・ブラッド』の主題歌として使用された「Live to Tell」をシングルカットする。同年の6月には第2弾シングル「Papa Don’t Preach」をリリース。
当時アメリカ社会で問題になっていた10代の妊娠について書かれたこの曲は、社会政治団体を巻き込んだ論争となる。その直後にリリースされた3rdアルバム『True Blue』は、全世界28ヵ国で1位を独占する大ベストセラーとなり、ギネス世界記録にも認定された。
<引用元・参考文献『マドンナ 永遠の偶像』ルーシー・オブライエン著/宮田攝子(二見書房)>
Madonna: The Complete Studio Albums (1983-2008)
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