2013年5月20日、レイ・マンザレクは入院中だったドイツの医療センターで息を引き取った。ザ・ドアーズ(The Doors)のFacebookには、こんなコメントが発表された。
ザ・ドアーズのキーボーディストで創設メンバーのレイ・マンザレクが、本日午後12時31分、胆管癌との長い闘いの末、ドイツのローゼンハイムにある病院で亡くなりました。74歳でした。妻のドロシー・マンザレク、兄弟のリックとジェイムス・マンザレクに囲まれる中、静かに息を引き取りました。
ちなみに、後にドアーズの楽曲「The End」を映画『地獄の黙示録』(1979年)の挿入歌として使用したフランシス・F・コッポラ監督は、彼らと同じ教室で学んだ同級生でもある。
シカゴで育ったレイは、クラシックピアノの素養もあったが、土地柄も影響しブルースに深い愛情を持っていた。レイはドアーズの代表的な楽曲の作曲を数多く手掛け、キーボードを演奏しながら同時に左手でベースラインを弾いて、サウンドをメロデックにドライブさせた。
クラシック風の華やかさを纏ったリック・ウェイクマン(ストローブス、イエス)やジョン・ロード(ディープ・パープル)、あるいは独特のブルースフィーリングを漂わせるイアン・マクレガン(フェイセズ)らの他のキーボード奏者とは大きく異なり、レイのキーボードプレイには楽器そのものが生み出すエレクトリックな機械音をそのまま自らのサウンドとして自在に操るようなユニークさがあった。
加えて、レイがオルガンのフットペダルによって創り上げるベースラインは(フットペダルゆえに)複雑なラインを刻むことができず、結果的にシンプルかつ機械的に刻み続けられる無機質なベースラインがドアーズサウンドにおけるサイケデリックな特色を際立たせる要因として作用した。
彼の名を有名にしたのは、ドアーズの第2弾シングルであり、全米No.1ヒットとなった「Light My Fire(ハートに火をつけて)」のイントロのオルガンフレーズだった。それは“約10秒のプレイだけでレイは音楽家として一生飯を食えるようになった”と表現されるほど革命的なフレーズだった。
そして、その広い音楽的裾野でドアーズサウンドに大きな影響を与えたと言われている。クラッシック、ジャズ、ブルース、カントリー、ロックン・ロール、そしてヨーロッパの舞台音楽などなど…あらゆるジャンルを知り尽くしているかのような知識と演奏力。 ドアーズの高い音楽性は、レイのバックボーンから生まれ出たものだと言っても過言ではないだろう。
ドアーズは、1993年にロックの殿堂入り(The Rock and Roll Hall of Fame and Museum)を果たした。それは長いロックンロールの歴史の中で、彼らが“無双”の存在として多くのアーティストに影響を与え続けてきたことが評価された結果だった。
1960年代の後半にサンフランシスコを中心に台頭したピッピームーブメント(ジェファーソン・エアプレーン、グレイトフル・デッドなどの一派にも加担しなかったし、ブリティッシュ・インヴェイジョン(ビートルズやストーンズやザ・フーが起こしたイギリス発の音楽旋風)にも影響されていなかった。
彼らにとって本拠地だったロサンゼルスにおいてさえ、当時“主流”だったママス&パパスやバーズなどのフォークロックとは“別世界の住人”と考えられていた。
そう、ドアーズはいかなるムーブメントからも超絶していたのだ。
若者達が音楽を通じて“高い理想”を掲げていた時代において、彼らの視線はロックの範囲をはるかに超える軌道を追い求めていた。ドアーズのギタリスト、ロビー・クリーガーはその死を悼んで次のようなメッセージをウェブサイトに掲載した。
レイは私の人生の大きな一部であり、これからもずっと心に残る相手だ。レイとジムは私が知るなかで最も人並み外れた二人だった。ジムについてはすぐにそれがわかった。彼は明らかに天才だったし、人と違ったことをしようと努力して、それに成功していた。一方、レイは遅咲きの花だった。おそらく彼の(そして私たちの)エネルギーがジムを抑えるのに使われていたからだ。本当のレイはジムが死去するまで表れなかった。彼はいつもさまざまな人とプロジェクトを行い、プロデュースを行い、さまざまな詩人と一緒に演奏した。彼はいつも人の良い面を見ていた。それが彼の才能だ。彼はUCLAでジムの中に良い点を見出した唯一の人物だった。他の人はジムを偽物か無価値だと思った。彼だけがジムの言葉の才能を見抜き、その後のことはご存じのとおりだ。レイは私の人生に影響を与えた。あなたにとってもそうであればいいと思う。
【佐々木モトアキ プロフィール】
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