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サイケデリックな祝祭感にあふれた異次元空間──ボ・ガンボスのライブとビジュアル展開

ボ・ガンボスのデビューは、1989年4月21日。浅草・常盤座でのライブを収録したビデオ作品『宇宙サウンド』と、シングル「時代を変える旅に出よう」の同時発売という、当時としては変わった形態によるものだった──先頃リリースされたBOXセット『BO GUMBOS 1989』には、そのデビュー作『宇宙サウンド』が、蔵出しライブ映像7曲を追加した〈2014 EDITION〉として新たに収録された。明治から続く古い劇場を舞台に展開されたこの映像作品は、よくあるライブビデオとは一線を画すように、サイケデリックな祝祭感にあふれた内容が異彩を放っている。

そこで、ボ・ガンボスのマネジメントを手がけ、現在もDr.kyOnのマネージャーを務める、瀬戸英夫(グリグリオフィス/Oooit Records)に、当時ボ・ガンボスがライブや映像作品で打ち出そうとした表現や、そこに込められた想いについてたっぷり語ってもらった。


「ボ・ガンボスは結成以来、ずっとライブばっかりやってきたバンドだったんです。まだレコードも出してないのに各地のイベントから声がかかったし、雑誌なんかにも出るようになって、お客さんもどんどん増えていって。デビュー前にして、かなり状況は盛り上がっていた。そこでレコード会社各社からの争奪戦となった。声をかけてくれた中で、EPIC・ソニー(当時)は映像も強いっていうのが魅力のうちのひとつでした。何より坂西伊作さん(故人)という、映像ディレクターがいらっしゃったのも大きかった」(瀬戸英夫/以下同)

渡辺美里、大江千里、TM NETWORKから、ストリート・スライダース、エレファントカシマシ、矢野顕子など、当時のレーベル所属アーティストの多くのライブ映像やMVのディレクションを担当していたのが、坂西だった。当時EPIC・ソニーは、自社制作する地上波の音楽番組『eZ』も持っていたことで、ライブやクリップを番組で流し、その素材をもとに映像ソフトを販売するという流れも確立していた。

「レコード会社からの争奪戦になりはじめていた頃……伊作さんがボ・ガンボスを観に来るようになったのはちょっと遅めだったんですよね。ある時、大阪のテレビ局からインクスティック芝浦のライブを収録したいっていうオファーがあって、その時に撮影部隊に知り合いがいたとかで、自分の仕事とはまったく関係ナシに、伊作さんがその撮影に加わってたことがあったんです。ステージ上手からどんとを狙って撮影してたんだけど、伊作さんは『これだ!これだ!』って、涙をボロボロ流しながらカメラ回してたそうなんです。それだけバンドに対する思い入れも強かったと思う。一方で、伊作さんって純粋な映像作家ではなく、立場としてはレコード会社の人間なんですよね。映像ディレクターでありながら、販促プロデューサー的なスタンスでも仕事してたから。クリエイターの部分と、レコード会社のプロモーターとしての両面からアーティストに接していて、映像にも両方の要素がありました」

EPIC・ソニーとの契約が決まって行われた最初の打ち合わせの時から、どんとは作品のリリースについて明確な意志を持っていたという。

「アルバムとは別に、シングルはシングルで、毎回その時々の企画性を持たせて出していって、それをずっと続けてシングル集を作った時に企画の足跡が見える感じにしたいって、最初の打ち合わせで言ってましたね。同時に、ボ・ガンボスは映像でデビューしたいっていうアイディアも持っていた。映像作品についてはライブハウスのような密室で異次元空間を作り上げていくような作品と、開放的な野外のシチュエーションを活かした祭りのような作品の両方を、映像として残していきたいとイメージしてましたね。その前者がデビュー作の『宇宙サウンド』であり、後者は1990年から毎年一度『HOT HOT GUMBO』と銘打った野外ライブを行って、映像作品としても発表したシリーズでした」

ボ・ガンボスのホール級のワンマンで、デビュー前後から舞台美術を手がけてきたのは、イラストレーター/デザイナーのヤギヤスオ。『宇宙サウンド』の収録では、常盤座の舞台にインドのマハラジャ宮殿を連想させるようなセットを組み立てたりと、豪華かつインパクトのある舞台美術を考案した。


「一見アールデコのようでいて、女性のセクシャリティのシンボルを感じさせるセットでね。そういった感覚は、ヤギさんならではですよね。ヤギさん自身も音楽の造詣が深いし、久保田真琴と夕焼け楽団や細野晴臣さん、じゃがたらのジャケットデザインもやってた方だから。どんとやボ・ガンボスの音楽を理解した上で、自分のやりたいことをやっていった感じでしょうね。1989年後半には、中野サンプラザのマンスリーを4回連続でやったんですが、毎月セットを少しずつ加えていったんです。翌年、NHKホールで総集編みたいな感じのライブをやった時には、ヘビとかワニの造形なんかも並んで、なんかすごいことになってましたね」


『宇宙サウンド』の収録では、客席の盛り上がる人々もバッチリと映り込み、ある意味ではステージセットと同じようなカタチで、映像の演出の一部として取り入れられた。

「常盤座での収録のためのシークレットライブのチラシを、デビュー前にあった中野サンプラザ2daysの終演後に配ったんです。チラシには『カラフルな格好してきてください』とか『鳴り物持ってきてください』とか書いておいて、なるべくそういうのを楽しんで参加してくれそうな子に手渡ししてね(笑)。他のスタッフもクラブやライブハウスでチラシを配って。ディレクターの名村(武)くんも西麻布のP・PICASSOで配ったって言ってましたね。来てくれたお客さんにも、これは普通のライブじゃなくビデオクリップの撮影なので、どんどん踊って騒いでくれって説明して。それもあってライブ自体も本当に盛り上がったし、お客さんもステージに上がって踊ったり……そうして異次元空間のようなライブを仕立て上げていったんです」

ボ・ガンボス at 浅草・常盤座 1989年


「彼ら自身のビジュアル面にしても、どんとの髪の色も、緑だったり赤だったりしょっちゅう変わってましたからね。衣装については、どんとが自前で揃えたものもあったけど、1989年のボ・ディドリーのツアーあたりから、忌野清志郎さんの衣装とかも手がけてたルーちゃん(光野るみ子)に衣装製作に入ってもらうことがあって。あと、ヘアメイクも亀山哲哉さんを入れて、中野サンプラザのマンスリーやNHKホールは、相当派手なことになってましたね。元々どんとや永井くんは派手だったけど、岡地くんなんかはそういう派手な衣装やメイクするのは抵抗あったと思いますけどね(笑)」

ルーツミュージックをベースにしたボ・ガンボスの音楽性が持つ土臭さに、どんとや永井が在籍していたローザ・ルクセンブルグの頃からつながるサイケデリックな感覚、インドやアジア文化への傾倒、そこにニューオーリンズのマルディグラ・インディアンたちの色彩感覚などが複雑に混ざり合い、ボ・ガンボスならではの極彩色のビジュアルが確立していった。

「『宇宙サウンド』や『BO & GUMBO』のジャケットデザインは、当時、EPICの社員だった植田敬治さんが担当してくださって。いまは独立されてデザイン事務所を立ち上げられてますけど、当時は渡辺美里さんとか大江千里さんとかスライダースとかBARBEE BOYSとかも手がけてたのかな。EPICのあの時代のイメージの一端を担った人なんですが、BO GUMBOSはまた違うイメージでやりたいっていうので、あのサイケデリックな感じのジャケットになったんですよね。植田さん、わざわざニューオーリンズまで来てましたから、相当気合い入ってたんでしょうね。植田さんはセカンドの『JUNGLE GUMBO』まで担当されて、3枚目のジャケットはどんとが自分でイラスト描いたものだったけど、4枚目以降はヤギヤスオさんがデザインしてくれました」

ボ・ガンボスは、デビューから解散までの6年あまりで、9本の映像作品を世に送り出した。

「どんとを中心として、ライブにおけるオーラとか、パフォーマンスの強力さや素晴らしさが伝わればいいなって思って作ってましたね。あとはどんとの企画性ですよね。『HOT HOT GUMBO』という夏の野外ライブを、年に一回やってて。1990年は代々木公園、1991年は下田のビーチでやったんですけど、海でフリーライブをやりたいっていうのは、デビュー当時から考えていたことだった。1992年には京大の西部講堂で大規模な野外ライブをやったんですけど、ライブハウスの空間演出だけじゃなく、野外のシチュエーションも含めたアイディアは、本当にすごく考えてた人でしたね。そういったライブの面白さは、映像でもかなり伝えられてきたと思う。そういうことが実現出来たのも、EPIC・ソニーだったからだと思うし、スタッフも自由な感じでやれるっていう風土は、当時の社長だった丸山茂雄さんの作ったものだったんでしょうね」


ボ・ガンボス
『BO GUMBOS 1989』

(ソニー・ミュージックダイレクト)


*『BO GUMBOS 1989』は完全生産限定盤です。
 詳細は 『BO GUMBOS 1989』特設サイト を参照ください。



TAP the POP 特集 ボ・ガンボス



おまけ
ボ・ガンボス「ナイトトリッパー・イェー!!」 from 『HOT HOT GUMBO ’90』

ボ・ガンボス「ひなたぼっこ」 from 『HOT HOT GUMBO ’91』

ボ・ガンボス「光るビーズ男」 from 『HOT HOT GUMBO ’92』

ボ・ガンボスが毎年1回、夏に行っていた野外ライブ『HOT HOT GUMBO』。1990年の代々木公園野外音楽堂、1991年の下田海岸、そして1992年の京都の街じゅうを巻き込んだ、京都大学西部講堂前広場での大規模なライブで、ひとつのクライマックスを迎えた。

*本コラムは2015年2月1日に初回公開された記事に加筆修正しました。

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