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アレサ・フランクリン27歳〜スター歌手としての大躍進、妊娠がもたらしたゴタゴタとイライラ

「ソウルの女王」として偉大な足跡をのこしてきたアレサ・フランクリン。“ローリング・ストーン誌が選ぶ偉大なシンガー”において1位に選ばれ、女性アーティスト初のロックの殿堂入りを果たした。さらには112ものシングル曲がビルボードチャートインしていることから、“世界一ビルボードチャートインした女性アーティスト”として選ばれるなど、その偉業は「生ける伝説」として語り継がれてきた。

1967年4月(当時25歳)、オーティス・レディングの名曲をカヴァーした「Respect」で全米1位を獲得し、一躍スターの座に躍り出た。その後も『Lady Soul』『Live at The Fillmore West』などのヒットアルバムを世に送り出し、サザン・ソウル歌手としてオーティスと人気を二分する存在となった。

白人歌手の有名な楽曲をカヴァーする機会も多かったが、アレサが歌えば純度の高いソウルナンバーに聴こえるから不思議だ。男女の恋愛を描いた曲でも、アレサの魔法にかかると「まるで人類愛を歌っているようだ!」と称賛されることもあった。


1969年4月14日、第41回アカデミー賞の式典で、フランク・シナトラ(当時54歳)が、27歳になったばかりのアレサ・フランクリンを紹介した。

アレサは、コロンビア時代の元レーベルメイトだったバーブラ・ストライサンドが最前列で見つめる中、「People(Funny Girl)」を歌った。映画『ファニー・ガール』で主演女優賞にノミネートされていたストライサンドは、その年、映画『冬のライオン』でヒロインを演じたキャサリン・ヘップバーンと賞を分け合った。

「言わせてもらえば、あの離れ業はわたしが仕掛けたんです」


世界初の黒人女性タレントエージェントの女社長ルース・ボウエン(アレサのブッキング・マネージャーを担当)は、あるインタビューで当時のことを語った。アカデミー賞のプロデューサーは最初、アレサに「ファニー・ガール」のような曲が上手く扱えるのかどうか不安に思っていたという。

「わたしはこう言ってやったわ! アレサならエディット・ピアフよりも上手くフランス国歌を歌えるわ! 彼女の“ファニー・ガール”を聴いたら、ストライサンドは二度とあの歌に手を出したいと思わなくなるでしょうね」



ルースはさらにこう続けた。

「アレサはあのステージで歌ったことで、アメリカのエンターテイメント界の中心に立ったの。そしてその座を絶対に手放さなかったわ。でもね、彼女には基本的なビジネスセンスが欠けていたのよ。几帳面じゃないし、規則正しくもない。音楽以外の計画は何から何まで失敗続きだったわ。だから口が酸っぱくなるまで言ったの。ビジネスのことはこっちに任せて、あんたは音楽のことだけを考えていればいいんだって」


程なくして、アレサは当時の恋人ケン・カニンガムの子供を妊娠する。ある日、突然そのことを聞かされたルースだったが、特に驚きはなかった。

「ケンとの間に子供ができると知って、彼女はとても喜んでいたわ。でも彼女は結婚はしないと心に決めていたのよ。結婚は一度で十分だと。法的になんも縛りもない状態で彼と暮していることに、彼女は満足していたのよ」


アレサは10代の頃に未婚の母となり、1960年代の中頃にマネージャーだったテッド・ホワイトと結婚するが、平気で暴力を振るう男だったため、結婚生活は数年で破綻した。その年、アレサは妊娠によって損なわれた契約上の“縛り”に直面することとなる。

ラスヴェガスで入れていた公演の会場使用料とサポートミュージシャンへのギャラの保証問題だった。アレサにとってヴェガスでの公演は、さらなるステップアップに繋がる大舞台だった。

「彼女は土壇場でいきなりキャンセルしたんです。つわりが酷くて、朝ムカムカすると言うから、午前中に歌う必要はないわ!歌うのは夜だけでいいから!と言ったんですがね、待っていたのは結局、法的なゴタゴタですよ」


当時『ジェット』誌(1951年に創刊されたアフリカン・アメリカン対象のニュース週刊誌)は、誌面にこんな記事を書き立てた。

「ソウル・シンガー、アレサ・フランクリンの行方が話題となっている! ラスヴェガスで病に倒れ、栄えあるシーザーズパレスでの公演を完遂できなかったミス・フランクリン! デトロイトに救急搬送され、かかりつけの医師の手当を受けたということだったが、数日後、彼女は自宅に不在であることが判明。数週間ほど家に戻っていない様子だ!」


ルースは当時の騒動をこんな言葉でボヤイている。

「アレサは自分の嘘にはまって身動きが取れなくなるのが常でしてね。後片付けは決まってわたしの仕事でした」


7月26日、ニューヨーク・タイム誌はこんな記事を報じた。

「ソウル・シンガー、アレサ・フランクリンが昨日、ハイランド・パーク地方裁判所で風紀紊(びん)乱行為の容疑を認め、罰金50ドルを課された。容疑は火曜の夜の交通事故に起因するもので、当局によれば、フランクリン氏は取り調べにあたった警官に対してケンカ腰だったという」


当時のブッキング・マネージャーでもあり、アレサにとって大切な友人でもあったルースは、ため息まじりにこう呟いた。

「彼女は妊娠すると大変でした」


普段にも増して気分屋になった。ある日、とても陽気に突然ジュディー・ガーランドの物真似を始めたと思えば、次の日には自分に関する新聞や雑誌の記事を見つけて、出版社に電話をかけまくって大声で捲し立てていたという。

「マスコミはプロ歌手のあたしと私人のあたしを鎖で繋いでいるのよ! 金輪際、どのマスコミにも二度と近づかないから! もう嫌よ! うんざりよ!」


1970年3月、27歳から28歳になろうとしていたアレサは、4人目となる息子を出産した。男の子には“カーフ(Kecalf)”という名前がつけられた。父ケン・カニンガム(Ken Cunningham)と、母アレサ・ルイース・フランクリン(Aretha Louise Franklin)のイニシャルを合わせたものだった。

<引用元・参考文献『アレサ・フランクリン リスペクト』デイヴィッド・リッツ(著)・新井崇嗣(訳)/シンコーミュージック・エンタテインメント>


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