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キース・リチャーズとグラム・パーソンズ〜涙の川を渡った男たちの心の風景

キース・リチャーズにカントリーの真髄を伝承したグラム・パーソンズ


発掘中だった音楽の鉱脈を掘り当てた。グラムとの出逢いが自分の弾くもの、書くものの領域を広げてくれたんだ。そこから束の間の友情が始まった。長い間行方知らずだった弟と再会したような感じだった。今でも寂しくてたまらない。


1968年、キース・リチャーズは英国に来ていたグラム・パーソンズと出逢った。意気投合した二人は、キースの自宅レッドランズでひと夏を過ごす。キースはグラムからピアノを教わりながら、カリフォルニア州ベイカーズフィールドのホンキー・トンク(※1)音楽のメロディや歌詞をはじめ、カントリーの良質な部分(※2)を吸収していった。

「あいつがカントリーに蒔いた種のいくつかは今も俺とともにある」とキースが話すように、この出逢いが後になってローリング・ストーンズの珠玉のカントリーナンバー(※3)を生み出すことになるのは有名な話だ。

グラム・パーソンズ──彼は生粋のミュージシャンだった。カントリーにロックとソウルを融合させた“コズミック・アメリカン・ミュージック”あるいはカントリーロックの創始者。ヒット曲なくして音楽を変えた男。当時はその重要性はさほど語られなかったが、90年代以降になって再評価が高まり、今ではその功績はチャック・ベリーやジミ・ヘンドリックスに匹敵する(※4)とまで言われている。

アメリカ南部の巨大な果樹園を経営する富豪の長男として生まれたグラム。しかし彼が12歳の時、「グラム、愛してる」とだけ書き残して父親が頭を撃って自殺する。母親はボブ・パーソンズと再婚(※5)。しかし今度はアルコール中毒だった母親が亡くなってしまう。ハーバード大学に入学したグラムは、この頃妹に宛てた手紙にこう記している。「人生が混乱し、逃げ場を失った人から学ぼう」。痛みを持ったこの心の風景は彼の音楽に反映されていく。

経済的な心配もなく音楽だけに没頭することができたグラムは、一単位も取らないままハーバードを退学。NYヘ渡ってインターナショナル・サブマリン・バンドを結成して、LAでレコードデビューを果たす。1968年、21歳の時だった。そしてすぐさまザ・バーズに加入。自作「Hickory Wind」を含む不朽の名盤『Sweetheart of the Rodeo』は、すべてのカントリーロックの指標となった。

キースと出逢ったのもこの頃だ。ザ・バーズは南アフリカの公演のため、英国に滞在中だった。出発前夜に「イギリスに来てからずっとヘンなんだ。南アフリカに行くって言うと冷たい目で見やがるし」とグラムはキースに零したという。彼はアパルトヘイトについて何も知らなかった。キースはそれが何であるかを説明してやった。すると「まるでミシシッピ州みたいだな。よし、行くのはやめた」。本当に同行しなかったグラムはバンドをクビにされた。

翌1969年。グラムはザ・バーズのクリス・ヒルマンとともに、フライング・ブリトー・ブラザーズを新たに結成。グラムが名付けた“コズミック・アメリカン・ミュージック”の金字塔的作品『The Gilded Palace of Sin』には、「Sin City」「Hot Burrito #1」といったグラムによる名曲の数々が収録されている。

また、ハリウッドの有名なテーラー、ヌーディ・コーンが作る“ヌーディ・スーツ”(※6)を着たメンバーが余りにも印象的なレコードジャケットは、カリフォルニア州のヨシュア・トゥリー国立公園で撮影された。広大静寂で別の惑星のような雰囲気に包まれたこの場所は、グラムにとっての“約束の地”だった。

グラムには、他の奴には見たことがない独特の資質があった。女を泣かせることができるんだ。女の涙を誘い、物悲しく切ない思いを届けることが。安っぽいお涙頂戴じゃない。心の琴線に触れるんだ。あいつの手には特別な糸が、女の心の急所をつかむ無類の糸が握られていた。俺の足も涙の川を渡ってずぶ濡れだった


キースが言うように、グラム・パーソンズの声や歌は“ハイロンサム”(※7)そのものだった。人の痛みを持った心の風景を想うその感覚。ミュージシャンにとって最も神秘的な才能。寂れたクラブではベテランのウェイトレスを釘付け(※8)にした。

1971年、自分のバンドを脱退したグラムは恋人グレッチェンを連れて、キースのいる南フランスのネルコートの別荘へ出向いた。地下室ではストーンズの最高傑作(※9)として知られることになる『Exile on Main ST.』が制作されていた。

二人はいつものように(※10)演奏したり作曲したりして過ごすが、グラムはソロアルバム『GP』の制作に取りかかるためアメリカに帰国。二人が会ったのはこれが最後だった。ツアーバンドのフォーリン・エンジェルスを結成したグラムは、薬物から足を洗って新しい音楽人生へ向かって歩き出そうとしていた。

人生は非情。

この頃、妻になったグレッチェンや義父ボブ・パーソンズとのカリブ海での休暇中のこと。母親の死にボブが関与していたかもしれないという噂に苦しめられていたグラムは、ボブと口論沙汰になる。それは病室でアルコール中毒の母親に黙ってボブが酒を与え続けていたというものだった。

妻グレッチェンによると、それ以来グラムは人が変わってしまったという。自暴自棄になり、見ていて辛かったと。夫婦は別居に至り、グラムはロード・マネージャーのフィル・カウフマンの家に転がり込んだ。そこには禁断の薬物の誘惑があった。

ある夜、ショーがはねた後、ボビー・キーズと連れションしてたんだが、いつもなら一つか二つジョークをかましてくる。なのに妙に無口なんだ。しばらくしてあいつは言った。「あのな、悪い知らせを聞いた。GPが死んだってよ」……みぞおちに蹴りを喰らったみたいな衝撃だった。俺はボビーを見た。グラムが死んだ? ドラッグから離れていたはずだし、調子は上向きだと思ってたのに。兄弟が死んだ。また親友とおさらばかよ。


2枚目のソロアルバム『Grievous Angel』の完成を祝うため、グラムやフィルたちはヨシュア・トゥリーへ車を走らせた。しかし、途中で立ち寄ったモーテルでグラムは薬物の過剰摂取で帰らぬ人となった。1973年9月19日、享年26(※11)。

グラムに見出されてスターになったエミルー・ハリスは言う。「彼は私の人生において永遠の恋人なの。それだけ深く影響された。死に方じゃなく、彼の音楽が伝説になるべきよ」。彼女は自分のアルバムをリリースする度にグラムの曲を今でも取り上げている。


【注釈】
(※1)カリフォルニア州ベイカーズフィールドのホンキー・トンク
マール・ハガードやバック・オウエンスなどが代表的。

(※2)カントリーの良質な部分
ジョージ・ジョーンズやレフティ・フリーゼルなど、キースはグラムからカントリーの魅力を教わった。1977年、長年の薬物所持と使用が問題視されてカナダのトロントで逮捕されたキースは、厳しい裁判の末に刑務所に収監されるという可能性が高まっていた。その頃、最後のレコーディングを覚悟したプライベートな「トロント・セッション」には、物悲しいカントリー音楽の名曲が多数収録されている。それらはグラム・パーソンズから教えてもらったものばかりだった。絶望の淵に立った音楽を愛する男は、この世にいない友人に何を想ったのだろうか。
こちらもお読みください。
絶望の淵で天使を見た男──キース・リチャーズと権力との闘い

(※3)ローリング・ストーンズの珠玉のカントリーナンバー
言わずと知れた「Wild Horses」「Dead Flowers」「Sweet Virginia」など。ストーンズの黄金期であるアルバム『Sticky Fingers』や『Exile on Main ST.』に収録されている。

(※4)功績はチャック・ベリーやジミ・ヘンドリックスに匹敵する
要するにグラムなくして、ウィリー・ネルソンやウェイロン・ジェニングスらのアウトロー・カントリーのムーヴメントは起きなかったし、アメリカを代表するバンドであるイーグルスも生まれることはなかったのだ。
こちらをお読みください。
カントリーのアウトローたち〜ウィリー・ネルソンとウェイロン・ジェニングス

(※5)ボブ・パーソンズ
ボブはグラムを可愛がり、パーソンズ姓を名乗るようになったという。

(※6)ヌーディ・スーツ
グラムはスーツの前面にマリファナの葉、背中に十字架をデザインした(下記動画や写真)。キースも赤いスーツを作った。

(※7)ハイロンサム
こちらをお読みください。
アイルランド系移民と“ハイロンサム”

(※8)ベテランのウェイトレスを釘付け
その魅力は例えば「Wild Horses」あたりを聴けば分かるだろう。ストーンズよりも先に録音されたグラムのバージョンは、哀切かつ崇高な世界に満ちている。ミック・ジャガーには決して表現できない風景だった。

(※9)地下室ではストーンズの最高傑作
こちらをお読みください。
“逃亡先”で生まれた最高傑作〜キース・リチャーズ

(※10)二人はいつものように
グラムとキースの仲の良さにミックは嫉妬。タランチュラのようにグラムの周囲を這った。居心地の悪くなったグラムはネルコートを後にしたという。

(※11)>1973年9月19日、享年26
さらに事件は続く。ロサンゼルス空港にあったグラムの棺を盗み出したフィル・カウフマンは、ヨシュア・トゥリーでグラムの遺体をガソリンで焼いてしまう。それは“約束の地”で葬ってほしいというグラムの遺言だったというが、遺族には信じられない不可解な行為に映った。

キースは2004年7月に行われたグラム・パーソンズのトリビュートコンサート『Return to Sin City』に出演。ノラ・ジョーンズと「Love Hurts」をデュエットした後、「Hickory Wind」を歌って二人の永遠の友情に捧げた。


グラム・パーソンズが歌う悲しみの「Wild Horses」は、ストーンズよりも先に世に出された。そしてグラムの代表曲の一つである「Hot Burrito #1」は貴重な映像。

本当の兄弟のようだったキースとグラム。ドラッグから抜け出すため、同じベッドで地獄の禁断症状と闘ったこともあった。
*画像はGram ParsonsのFacebookページより。

【友情の証】

ザ・バーズ
『Sweetheart of the Rodeo』


フライング・ブリトー・ブラザーズ
『The Gilded Palace of Sin』


ローリング・ストーンズ
『Sticky Fingers』


ローリング・ストーンズ
『Exile on Main ST.』


グラム・パーソンズ
『GP』
『Grievous Angel』


トリビュートコンサート
『Return to Sin City』





GRAM PARSONS 1946.11.5-1973.9.19
*画像は『Sacred Hearts & Fallen Angels: The Gram Parsons Anthology』のブックレットより。

*参考・コメント引用/DVD『グラム・パーソンズの生涯〜フォーリン・エンジェル』、キース・リチャーズ自伝『ライフ』(棚橋志行訳/楓書店)
*このコラムは2014年9月に公開されたものを更新しました。

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