シンディ・ローパーが1983年に最初のソロ・アルバムを作ったのは、フィラデルフィアの北西部、ポコノ山脈の麓にあるマネイアンクという町にあるスタジオだった。
フィラデルフィアのインディーズ・レーベルの社長だったレニー・ペッツは、メジャーのエピック・レコードに移ったことで、かねてから注目していたシンディとソロ契約を結ぶことにした。そしてリック・チャートフという若者を、プロデューサーとしてシンディに紹介する。
コロンビア・レコードで働いていたリックは、キンクスやザ・バンドとも仕事をした経験があり、自分が気に入って集めていた楽曲を歌えるシンガーを探していた。そしてリックはその頃までずっと、フィラデルフィアのローカル・バンド、フーターズと一緒に仕事をしてきていた。
フーターズは東海岸では有数のバンドだという評価を得ていた。だが、メジャー・デビューまでに時間がかかってしまい、82年の秋をもってバンド活動に区切りをつけて解散状態にあった。
ここからシンディはフィラデルフィアの音楽シーンとつながって新しい展開が始まる。
自分のアルバムをどのように仕上げたいかについて、シンディはリックと話すことになった。まずフーターズの音楽を聞かせてもらったシンディは、歌う男性が二人いるのに、どちらも際立った声を持っていないと感じた。
歌う男性二人とはソング・ライティングを手がけているロブ・ハイマンとエリック・バジリアン、かつてはリックとペンシルベニア大学でバンドを結成していた仲間同士だった。
そしてレゲエの曲を聞いた時、シンディにアイデアが浮かんだ。フーターズのニューウェーブ的なレゲエ・サウンドを、もっとわかりやすくて下世話なサウンドにし、クラッシュやポリスみたいなパンキッシュな音と、ダンス音楽で使われ始めていたゲーテッド・スネアを組み合わせるというものだ。
マネイアンクでレコーディングが始まった時、スタジオにいた主要メンバーはシンディのほか、プロデューサーのリック、それにフーターズのロブとエリックだ。つまり、その年に出たフーターズの1stアルバム『Amore』を制作した中心メンバーに、シンディが加わったという形だった。
The Brainsの「マネー・チェンジズ・エブリシング」カヴァーするにあたって、シンディはこんなアイデアを出した。
「違うふうにやってみない? 自分が”ロンドン・コーリング”を演奏してるんだって思い込んで」
レゲエやスカなど、ロンドンのニューウェーブ・バンドのような方向を目指していたロブには、そのニュアンスがすぐに伝わった。完成したシンディの「マネー・チェンジズ・エブリシング」には、確かにクラッシュを思わせるリズム・ギターが効果的に入っている。
シンディはいつも回りに対して、「混ぜこぜにしちゃえばいいじゃん?」と思っていたという。そして実際にスタジオではそのようなアプローチを試していった。
プロデューサーやソングライターが考える当たり前のスタイルではなく、常に現代的でミクスチャーなサウンドを目指したのだ。
フーターズの「ファイティング・オン・ザ・セイム・サイド」という曲を歌わないかという提案には、それよりもっといい歌を自分で作ることで応えてみせた。
そこから「シー・バップ」が生まれると、ジョン・レノンがアルバム『ロックンロール』でやったようなサウンドに、ロックンロール黎明期のビッグ・ポッパーみたいな感じを加えた。
「Girls Just Want to Have Fun」の場合は、ロブに対してレゲエのフィーリングでコードを弾いてもらい、一方でエリックには古いモータウンのギターリフを弾くように頼んだ。
「とにかく私を無視して自分のパートをプレイして。どんな風になるか聴いてみましょ」
突然、それまでの歌がまったく違って、アンセムっぽい雰囲気が出てきた。
そしてロブと一緒に書いた曲から誕生したのが、後にマイルス・デイビスにまでカヴァーされる名曲の「タイム・アフター・タイム」である。
きっかけはロブの言った「思い出の詰まったスーツケース」という言葉で、そこにシンディの人生体験から導き出された物語が自然に重なりあった。
シンディとフーターズとの出会いが予期せぬ新しい化学反応をいくつも起こして、1980年代を代表する奇跡のアルバム『She’s So Unusual(シーズ・ソー・アンユージュアル)』は完成した。
シンディ・ローパーの驚異的な快進撃がそこから始まり、少し遅れて復活したフーターズもまたブレイクしていった。
(注)シンディの発言は、シンディ・ローパー&ジャンシー・ダン著 翻訳 沼崎敦子「トゥルー・カラーズ シンディ・ローパー自伝」(白夜書房)からの引用です。
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