ボ・ディドリーやリトル・リチャードと並び、“ロックンロールの創始者の一人”として知られている伝説の男チャック・ベリー。
ビートルズのジョン・レノンが、「ロックンロールに別名を与えるとすれば“チャック・ベリー”だ」と発言しているほど、後進のロックアーティストたちに多大な影響を与えてきた。
そんな“生きる伝説”のような人物は、一体どんな人生を歩んできたのだろう?
──1926年、ミズーリ州セントルイスに住む家庭の6人兄弟の真ん中として生まれる(一部の伝記ではカリフォルニア州サンノゼ生とする説もあり)。幼いころから聖歌隊に入り音楽に親しんできたが、高校時代には不良仲間に影響され様々な悪事に手を染め、警察のお世話になったことも数多くあった。
1953年、27歳になったチャックは、ピアニストのジョニー・ジョンソンが率いるトリオバンドにギタリストとして加入。ある日、ブルース界の大御所マディ・ウォーターズから“人生を変えるアドバイス”をもらい、その直後にブルースの名門チェスレコードとの契約を結んだ。
ある日俺は新車の遠乗りがしたくなって、シカゴに親戚がいるという友達のラルフと2人でシカゴへとドライブしたんだ。そして、憧れのマディ・ウォーターズが出演するクラブへ行ったんだ!マディは最後のセットのラストナンバー「Got My Mojo Working」を演奏中だった。演奏が終わると群がるファンをかきわけ、マディのサインを貰うために突進してくれたラルフのおかげで、俺はマディと口をきくチャンスができた。
大統領か法王に、お目どおりするような気分だった俺は、曲の素晴らしさを褒めた後、単刀直入に「レコードをつくるにはどうすればいいのか?」と聞いてみた。大勢のファンが声をかけようとひしめく中で、マディは俺の質問に答えてくれたんだ。
「レナード・チェスに会ってみろ!そう47丁目とカテッジの角にあるチェスレコードさ!」
俺に音楽を愛することを教えてくれた人。俺の音楽に最も大きな影響を与えた人。それがブルース界のゴッドファーザー、マディだ!
1955年、29歳にしてシングル「メイベリーン」で遅咲きのデビューを果たした後、数年間に渡り「Roll Over Beethoven」、「Rock ‘n’ Roll Music」、そして代表曲となる「Johnny B. Goode」、「Carol」を発表しながら、ライブでおなじみとなった“ダックウォーク”で観客を楽しませ、一躍スターへの階段を登りつめていく。
ところが人気絶頂の1959年(当時33歳)、チャック・ベリーは14歳の少女に売春を強要した容疑で逮捕され、3年間収監される身となる。釈放後、黒人差別、金銭トラブルなど辛い経験をする中で、疑心暗鬼に陥ってしまう。「誰も信用できない」。ギターケースを抱えて、たった1人でツアーを行うようになる。
初来日は1981年、55才の時だった。当時、日本公演でバックバンドを務めたのは、日本人のドラマーとピアニスト、そして白人のベーシストだった。その時の様子を知る音楽ファンによると、演奏はかなりグダグダだったらしいが、マネージャーも帯同せずにバックバンドを現地調達することが多かったチャックにとっては“普通”のことだったのかもしれない。
翌年にも来日し、横浜スタジアムなどで当時人気絶頂だったRCサクセション、サム&デイヴ解散後のサム・ムーアとの共演イベント『THE DAY OF R&B』にも出演している。
1986年(当時60歳)、ロックの殿堂入りを果たした際に、選考委員は「ロックンロールを創造した者を一人に限定することはできないが、最も近い存在はチャック・ベリーだ」とコメントしている。
また同年、ローリング・ストーンズのキース・リチャーズが中心となり、故郷セントルイスで生誕60周年記念コンサートを行う。そのときの様子が翌年、映画『ヘイル!ヘイル!ロックンロール』として公開されて大きな話題となった。
【オフィシャルサイト】
http://chuckberry.com