2015年11月15日。シンガーソングライターのP.F.スローンが、ロサンゼルスの自宅で息をひきとった。70歳で他界するわずか数週間前に、膵臓癌と診断されていたという。
スローンは、60年代のアメリカのポップスシーンにおいて、“優秀なソングライター”として功績を残した。その代表作と言えば、バリー・マクガイアが歌った「Eve of Destruction(明日なき世界)」と、ジョニー・リヴァースの「Secret Agent Man(秘密諜報員)」だろう。
スローンと同様に60年〜70年代に活躍したソングライターの中には、レオン・ラッセルやキャロル・キングのように、自らパフォーマーとして表舞台に立って脚光を浴びたアーティストもいる。しかし、P.F.スローンにスポットライトがあたることはなかった。
ずっとP.F.スローンを探している
彼の行方を知る者はいない
彼の歌を聴いた者もいない
作詞・作曲・オーケストレーションと、三つの部門でグラミー賞を受賞した唯一の人物ジミー・ウェッブは、スローンのことを「僕が音楽家になろうと試みた時に憧れた人」と尊敬し、自身の1stアルバム『Words And Music』(1970年発表)に「P.F.スローン」というオマージュソングを収録している。
1945年ニューヨーク生まれロサンゼルスで育ったスローンは、13歳でアラディン・レコードと契約を結び、1959年に“フリップ・スローン”の名義でレコードデビューを果たした。
エルヴィス・プレスリーに憧れて歌手デビューしたものの、売れない日々をしばらく経験。1961年(当時16歳)、アメリカの映画製作会社『スクリーン・ジェムズ』にソングライターとして採用される。その後、少なくとも7つの名義でソロ作品をリリースしたが、いずれも商業的成功を収めることはなかった。
『スクリーン・ジェムズ』の西海岸責任者が、スローンを同じニューヨーク出身で、同じく歌手として成功を得られずにいたスティーヴ・バリと組むことを提案。
以降、バリとのコンビで能天気なサーフ・ミュージックを書いていたが、60年代半ばになるとボブ・ディランの影響もあり、シリアスなフォーク・ロックを量産するようになる。
この頃、スローンが単独で作詞作曲し、バリー・マクガイアに提供した「Eve Of Destruction(明日なき世界)」(1965年発表)が全米No.1のヒットを記録し、代表曲となる。
こうしてスローンは1965年(当時20歳)以降、再びソロアーティストとしてキャリアを重ねていく。しかし、彼はソングライター/プロデューサーとしての仕事が忙しく、ソロアーティストとしてアルバムは出すものの、ステージに立てないなどのレコード会社との制約の中で、鬱々とした日々を送ることとなる。
スローンは裏方の仕事を辞めて、ソロアーティストとして専念することを望んでいた。一方でレコード会社は、スローンの希望に難色を示し、「退社するのであれば、これまで我が社で書いた楽曲の印税を放棄せよ」という厳しい条件を押しつけてくる。
これは売れっ子作家の独立を翻意させる為に会社側が出した条件だったが、なんとこの条件を受け入れて、これまでの楽曲の権利を放棄して独立したのだ。
ところが、ようやく自由を手に入れた矢先に悲運が襲いかかる。スローンの心は鬱病と緊張病に蝕まれてしまっていたのだ。
以降、ソロ名義でアルバムを2枚ほどリリースするが、売り上げは芳しくなく、次第に生活は困窮し、長年暮したロサンゼルスを離れ、生まれ故郷のニューヨークに戻った。契約条件的にも身体的にも思うように活動ができなくなったスローンは、70年代に入ると音楽シーンから姿を消した。
そして、長い闘病生活を経て、1985年(当時40歳)にようやく復活を果たす。その後は小規模のクラブでのステージ活動を中心に、何枚かインディーズからアルバムを出しながら、地道に活動を展開していたという。

Here’s Where I Belong : The Best Of The Dunhill Years 1965-1967
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執筆者
【佐々木モトアキ プロフィール】
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