1974年に「一本の鉛筆」という歌が誕生したのは、1945年8月6日に原子爆弾によって焦土となった広島で、復興と平和をテーマにして始まった音楽祭がきっかけだった。
美空ひばりには幼少時に父が徴兵された後、四人の幼子を抱えた母と一緒に戦火の中をかろうじて生き延びてきたという、横浜大空襲の体験が生々しく記憶されていた。かろうじて避難した手作りの防空壕では、生き地獄のような恐怖を味わった。
戦後になってから、夏の日ざかりに焼けたアスファルトの道をゴム長靴をはいて、魚屋の仕入れでリヤカーを引く母の姿を美空ひばりは鮮明に覚えていた。
“世界に平和を発信したい”という広島テレビ放送の企画に賛同し、音楽祭への出演を快諾した美空ひばりは、課題となった描き下ろしの作品「一本の鉛筆」に取り組んだ。
この真っ直ぐなメッセージ・ソングを作詞したのは、映画の脚本家だった松山善三である。彼は「広島平和音楽祭」の総合演出も引き受けていた。
そして黒澤明監督の映画音楽世界にまでで知られる音楽家、佐藤勝が作曲とアレンジを引き受けて、反戦と平和を訴える新しい歌が完成する。
一本の鉛筆と一枚の紙があれば、たった一人でも反戦の意志を訴えることができる……。
美空ひばりが8月9日に開かれた第一回広島平和音楽祭の会場で、この歌を人初めて前で歌うためにスタンバイしていたときのことだった。その日も朝から、暑い1日になった。
会場の広島体育館には冷房設備が備わっていなかった。したがって出番を待つための場所として指定された体育館の用具置き場のようなスペースには、一本の氷柱が置いてあるだけだった。
そこで早くからスタンバイして出番を待っていた美空ひばりに、暑さを気遣った広島テレビのディレクターが思わず声をかけた。「ここは暑いですから、冷房のある別棟の楽屋でお待ちください」
美空ひばりそのとき、誰に言うでもなくこうつぶやいたという。
「あの時、広島の人たちは、もっと熱かったのでしょうね」
10月1日に「一本の鉛筆」はシングル盤として発売されたが、B面の「八月五日の夜だった」ともども、広島市へ投下された原子爆弾によって起こされた未曾有の悲劇について、怒りを込めて描いた作品だった。
それから14年後の1988年、美空ひばりは再び広島平和音楽祭に出演している。
すでに大腿骨頭壊死(えし)と肝臓病で、前の年から入退院を繰り返していた美空ひばりは、もう再起は絶望的だととも伝えられていた。そうした状況にもかかわらず、その年の4月11日に開かれた東京ドームでの「不死鳥コンサート」を見事に成功させて、完全復活をアピールしたばかりであった。
しかし、東京ドーム公演後を境にして美空ひばりの体調はひどく悪化して、一人では歩くことさえ困難な状態になってしまった。その日も会場となった広島サンプラザの楽屋にはベッドが運び込まれて、美空ひばりは本番が始まるまで点滴を打ったまま、ずっと横になっていた。
ところがひとたび舞台に上がって観客の前に立った瞬間に、美空ひばりは笑顔を絶やさず「一本の鉛筆」を、最後まできれいに歌い切ったのである。そしてステージを降りた直後に、「来てよかった」と微笑んだという。
翌年の6月24日、美空ひばりは52歳の若さで逝去した。
しかし美空ひばりによって生命を与えられた「一本の鉛筆」は、21世紀になってから浜田真理子や大島花子ほか多くの女性シンガーたちによって歌い継がれて、今ではスタンダード・ソングへと育っている。
<注>本コラムは2014年8月4日に初公開した「一本の鉛筆があれば戦争はいやだと私は書く」の改題、改訂版です。
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