1975年7月26日。東京・日比谷野外音楽堂で「サマーロックカーニバル」というロック・コンサートが開催された。
出演したのは、シュガー・ベイブ、サンハウス、愛奴、金子マリとバックス・バーニー、鈴木茂とハックル・バック、上田正樹とサウス・トゥ・サウスだった。出演が告知されていた頭脳警察は当日になって欠場した。
野音では4月下旬から11月上旬にかけて、毎回これだけの顔ぶれのバンドが揃って、週末になるとライブが行なわれていたのだ。
オープニングは山下達郎を中心とするバンド、シュガー・ベイブだったが、浜田省吾はその日のことをこんなふうに回想している。
日比谷野音で、いちばん頭がシュガー・ベイブでトリがサウス・トゥ・サウスっていうコンサートの、真ん中ぐらいに僕が出たんですよ。そこでシュガー・ベイブが、まだ陽が高いうちに演奏してんだけど、これがすっごくよかったです、演奏がね。それでまず圧倒されて、最後のサウス・トゥ・サウスに圧倒されて、それが僕の最後なんです。
このときの浜田省吾は、前年にデビューしたバンド、愛奴のメンバーだった。「それが僕の最後なんです」というのは、文字通りにその日を最後にバンドから脱退していくことを意味している。
愛奴は都会的なポップス・センスを持ったロックバンドではあったが、メンバー個人の音楽性の違いからか、デビュー・アルバム『愛奴』はどことなく統一性に欠ける感じで、まだ発展途上にあると思わせるところがあった。
ドラマーだった浜田省吾はそのアルバムで全12曲を作詞、作曲した6曲ではヴォーカルも担当した。そのソングライティングには光るものがあり、とくにビーチボーイズのサウンドを踏襲したデビュー・シングルの「二人の夏」は、ごく一部ではあったが発売前から大きな注目を集めていた。
しかし、期待されたわりにシングルはヒットとは程遠かったし、アルバム・セールスにもまったく結びつかなかった。
やがてメンバー間での音楽性の違いが目立ってきたことや、ドラマーとしての自分に限界を感じたことから、浜田省吾は愛奴を脱退して、自分の音楽を探す道を選ぶ。
メインとなるソングライターを失った愛奴が解散したのは、翌年末のことだった。一部の音楽ファンからは熱い支持を得ていたシュガー・ベイブも、その年の春には解散の道を選んでいた。
僕と全く同い歳で、同じ年齢で、同じ年にバンドを作って、同じ年にバンドのアルバムを出して、
同じ年にバンドを解散して、そして同じようにソロになって、僕と同じようになかなか売れなくて、やはり僕と同じ頃にブレイクして、今でも現役で第一線でバリバリで活躍している一人のミュージシャンがいます
1994年春。自分のアンプラグド・ライブで、こんな紹介から「二人の夏」をバラード風にアレンジして歌ったのは山下達郎だった。
(このコラムは2014年7月26日に公開されたものです)
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