1984年12月24日。
浜田省吾 ON THE ROAD ‘84。
はじめて彼のメロディーを知ったのは甲斐よしひろのソロアルバム
『翼あるもの』(1978年)での「あばずれセブン・ティーン」だった。
のちに自身の『HOMEBOUND』(1980年)に収録されるその曲は
甲斐よしひろの声にピッタリで直ぐに歌詞カード見て調べたら
作詞・作曲が浜田省吾だった。
名前は聞いたことあったものの作品とかジャケットと結びつかなかったからレコード屋で探したらスポーツ選手のような(それでいてどのスポーツか特定できない)ジャケット見て、「またこんど」と棚に戻した(ごめんなさい)。
本格的に聴き始めたのはあのカップヌードルのCMソングが収録された
『君が人生の時・・・』だった。2曲目からの流れが特に秀逸なメロディーで
そのときに浜田省吾=メロディーメイカー、そう確信した。
彼がことあるごとにこの『君が人生の時・・・』までを廃盤にしたい、と語ってたのだけれど僕はどこがそんなに気に食わないか理解できなかった。
まあ、そのあとの『HOME BOUND』からの革新的かつ確信的なロック的アプローチが今の彼に繋がるもの、と捉えるとそこに彼なりの気恥ずかしさがあったのかもしれない。
日本ではじめて原子力パワーの恐ろしさをポピュラー・ソングに昇華でき得た
アルバム『PROMISED LAND〜約束の地』(1982年11月発売)の
最後に入ってる「僕と彼女と週末に」に平和ボケしていた高校生の僕は
感じたことのない衝撃を受けた。
翌1983年には福岡の米軍博多基地跡に出来たばかりの
海の中道海浜公園で自身初の野外コンサートを実施。
僕が浜田省吾のLIVEを観たのはこのときが初めて。
とてもこんなところに戦闘機が離着陸してたとは思えないほどに
大きく青空が広がるその公園で僕は開演を待っていた。
まだ青々しい芝生に座ってたら なんだかまわりがザワザワして来たので
横を見てみると THE ALFEEの高見沢さんが座っててビックリした。
なんたって「メリー・アン」がヒットチャートを駆け上っている頃。
どんどん周りに人が集まってきて結局スタッフに連れられてどこか行っちゃった。一緒に観れたら面白かったのに。
佐藤準全面アレンジのバラードアルバム『Sand Castle』を挟み
いよいよ1984年、新作『DOWN BY THE MAINSTREET』(当時はメインストリートという邦題(?)が明記されてたはず)で大きなブレイクポイントを迎えていた。
そのアルバムを引っさげてのクリスマス・イヴの夜のライブ。
「愛の世代の前に」ではじまり「明日なき世代」で終わる
脂が乗りまくった鉄壁のR&R的ライブ。
受験生という自覚も忘れ僕はありあまるやるせなさ、みたいなものを
彼のステージに投影し熱狂した。
そんな最高のステージとは裏腹に
彼はライブ後いつにない徒労感と孤独感を抱えて福岡の夜をひとり彷徨ったという。
赤鼻や白髭が賑やかに街を彩っているなかでいっそう彼の傷みは
深いものとなり、その奥深い底から見上げた風景はのちに
素敵な作品を生むパッションとなった。
翌年僕らに届けてくれたのが
『CLUB SNOWBOUND』というクリスマス・アルバム。
底抜けに明るいウォール・オブ・サウンドは
本人の言うとおり確かにオリジナルアルバムでやるのは
気恥ずかしかったのかもしれないけれど
60’s感たっぷりの中にいきなり現れる
「MIDNIGHT FLIGHT-ひとりぼっちのクリスマス・イブ-」という名曲が
このパーティーアルバムをそれだけに留まらせない作品にしている。
この歌が1984年のクリスマスの彼の孤独の彷徨いから生まれたことを
勝手に想像するとまたこの歌に深みが増してくる。
翌年いよいよ『J.BOY』で大きなブレイクを迎えることとなる。
そして時は流れ2015年。
10年ぶり、といわれピンと来なかった。
この10年の間には新録曲を含むベスト・アルバムを3タイトル、
そしてFairlifeという味わい深い試みも、そして当然ツアーなど
精力的に動いていたのでそんなに時が経ってるとは気づかなかった。
『Journey of a Songwriter –旅するソングライター』
しかしこうして聴き始めてみると
体のあちこちが反応して自覚する。
ああ、待ってたんだ、と。
前に彼が住みたい街として福岡を挙げていたことがあったけれど
あのクリスマスの夜のこの街は
彼に何をプレゼントしたのだろう。
<ミュージックソムリエ 大畑亨>