テレビドラマのディレクターとして「時間ですよ」「寺内貫太郎一家」「ムー一族」等のヒットシリーズを手がけ、向田邦子と組んだ「スペシャルドラマ傑作選」などを遺した演出家の故・久世光彦は、文筆家・作詞家としても活躍した。
久世は2008年3月に急逝するまで、昭和の忘れえぬ風景や記憶、時代を題材にした「歌」についてのエッセイを、「マイ・ラスト・ソング」というテーマで14年間にわたって雑誌連載した。
「もし死ぬ間際に、最期の刻に、一曲だけ聴くことができるとしたら、どんな歌を選ぶだろうか」
そこで取り上げられた歌の数は、全部で100数十曲にもなった。
それを受け継いで『マイ・ラスト・ソング~あなたは最後に何を聞きたいか』を、2008年に舞台化したのは愛弟子ともいえる女優の小泉今日子と、島根県の松江市を拠点として活躍するシンガー・ソングライターの浜田真理子だった。
その舞台のオープニングは小泉今日子のこんな朗読から始まる。
「同棲時代」の劇画家・上村一夫は酔うときまって「港が見える丘」を唄った。
もちろん破調、乱調の「港が見える丘」である。
いかにも辛そうに身をよじり、もともと怪しいギタアの手もとはもつれ、歯と歯の間に隙間があるのでそこから息が洩れて歌の文句は聞きとりにくい。
けれど春の夜、満座は妙にしんとしてこの不思議な歌を聞いてしまう。
私などはその度に泪ぐんでしまう。
それは、まるで陽炎みたいにとりとめもなく生暖かい「港が見える丘」なのである。
戦後間もない1947(昭和22)年に発表された「港の見える丘」は、新人の平野愛子が歌ってヒットした和製ブルースだ。
太平洋戦争が始まってからは戦意高揚の勇ましい歌ばかりが推奨され、ジャズやブルースは敵性音楽として聴くことはおろか、うたうことも禁じられていた。
バタ臭くて物憂いブルースの「港が見える丘」がヒットしたのは、戦争の終わったことを実感させる出来事だった。
戦争が終わって食べものも満足にない時代の人々に、大いに歓迎された娯楽はNHKラジオの『素人のど自慢音楽会』である。
レコードもなかなか聴く機会がない人たちは、ラジオで歌を聴いて覚えてた歌を伴奏なしで自分たちでうたった。
歌を自由にうたえる時代がやってきたことで、のどが自慢の素人たちにも開放された番組には、下手の横好きも参加して笑いをとった。
実に様々な人たちの歌声が平等に放送されたのは、民主主義をわかりやすく表した画期的な出来事だった。
「港が見える丘」はNHKラジオの『素人のど自慢音楽会』で、もっともよくうたわれた歌のひとつだと言われている。
12、3歳でその歌を聞いた久世光彦は友人だった上村一夫がうたう歌への感想を、このように述べていた。
上村一夫の歌の向こうに〈戦後〉が揺らめいて見える。
〈あんた〉は細く尖った顎のあたりに険のある、柳屋のポマードの匂いのする男である。
〈あたい〉は薄っぺらなスカアトの腰あたりが物欲しげな、下ぶくれの女である。
突然、陽あたりの悪い暗がりから解放された戸惑いと、臆病さと、そして軽薄さを正直に顔に出している〈あんた〉と〈あたい〉なのである。
「港が見える丘」は、あの(・・)戦後以外の時には決して生まれることのない歌であった。
この蓮っ葉な〈あんた〉と〈あたい〉の、どこかけだるいニュアンスを受け継いでいるのは、ちあきなおみが1985年に発表したヴァージョンだろう。
久世は「港の見える丘」についてのエッセイを、こんなふうに締めくくっている。
青すぎる空を見上げて、私たちは不安だった。
まだ髭も生えてないくせに、〈日本〉ということを確かに考えていた。
いまもおなじである。いまもよく判らない。
だから私の目には、「港が見える丘」の〈チラリホラリ〉の花片(はなびら)が、爛漫さくら祭の紙吹雪に見えてならないのである。
命がもうじき終わるというとき、私は「港が見える丘」を聴きたい。
それを遠くに聴いて小さく首をひねりながら、私は死んで行くのだろう。
あのころは、いったい何だったのだろう。
あれから、私たちは何をしてきたのだろう。
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