「ロックは英語で歌うべきか、日本語で歌うべきか」という論争が起こっていた1970年から71年にかけて、本物のロックを目指したロック・コンサートが様々な会場で行われていた。
そんな中でウッドストック・フェスティバルにならった野外ロックフェスを開こうと、1971年8月6日と7日の2日間、ニッポン放送の主催で「箱根アフロディーテ」というイベントが実現した。
箱根・芦ノ湖畔にある成蹊大学所有の敷地に、特設ステージが組まれたこのイベントの目玉は、プログレッシブ・ロックの雄、初来日するピンク・フロイドであった。
邦題のネーミングのユニークさもあって、前年に出たアルバム『原子心母』が大ヒットしたピンク・フロイドが、日本でどんなライブを見せてくれるのか、ロックファンの期待は大きかった。
しかもイベントの3週間前、7月17日には激しい雷雨によって伝説となったグランド・ファンク・レイルロードの後楽園球場公演が行われて、異様な興奮のなごりがあった。
(参考記事⇒激しい雷雨で伝説となった後楽園球場のグランド・ファンク・レイルロード来日公演)
「箱根アフロディーテ」の記者会見でも、関心はピンク・フロイドに集中したが、質問ははぐらかされ気味であった。
Q:日本のファンに4人からメッセージを。
A:日本にしゃべりに来たんじゃない。プレイしに来たんだから、カンベンしてョ。
Q:貴方達の音楽とドラッグは密接な結び付きがあるということですが、その事に対しては?
A:日本じゃ、そのことについて余りしゃべるなって云われてるんだ。
Q:今度の箱根アフロディーテについて。
A:向こうでは、1910フルーツガム・カンパニーなんかと共演するなんてことは、有り得ないことだよ。
Q:向こうでの他のバンドとのつき合いは?
A:言っても、君達が知らない奴等ばっかりだよ。
Q:ソフト・マシーンは?
A:とっても、いい奴等だ。
Q:キング・クリムゾンは?
A:そんなグループ、聞いたことないよ。
ところが本番を前にして、台風の影響で会場となる箱根の一帯は前日から大荒れの空模様となった。開催そののもも危ぶまれる状況にあったが、何十台ものトラックで砂利を運搬して客席を養生した裏方たちの苦労が報われて、悪天候ながらも両日ともイベントは開催された。
ウッドストックにならった野外ロックフェスという割に、日本側の出演者たちはロックファンにとって意外な顔ぶれであった。
メインステージに立ったのは南こうせつ&かぐや姫、本田路津子、トワ・エ・モア、長谷川きよし、赤い鳥、尾崎紀世彦、モップス、渡辺貞夫クインテット。どちらかといえば中心はフォーク勢で、日本のロックバンドはモップスだけだった。
海外勢も1910フルーツガム・カンパニー、バフィ・セント・メリーという出演者であった。
長いセットチェンジがあって、ヘッドライナーのピンク・フロイドが登場したのは、夕闇せまる頃になってからである。延々と待たされた観客を前に、1曲目の「Green Is the Colour」が始まった。
ときどき強風でスピーカーからの音が流されてしまい、客席にまで届かないという状態で、最悪といってもいいコンディションだ。
「Green Is the Colour」が終わってからも長いチューニングがあり、いよいよ観客が待望していた「原子心母」の演奏が始まった。
雨は止んでいたが濃霧がたちこめていて、スポットライトの光がステージまで届かない瞬間もあった。ただし、その分だけ自然のスモークと人工の光が一体化し、野外ならではの幽玄な空間が出現したとも言える。
観客は「原子心母」が終ってもしばし呆然としたままで、数秒後になってようやく、我にかえったように一斉に盛大な拍手が巻き起こったという。
ドラムのニック・メイソンは2014年に来日したときに、「箱根アフロディーテ」についての思い出を語っている。
「すごく感激した、素晴らしい体験だったよ、初来日は。あれほどエキゾチックな所に行ったことはなかったから。箱根は何回かした来日公演の中でも一番のお気に入りだろうな。すごく楽しかった。箱根に泊まって、夜には花火があがって。天候は悪くて、雨風が強かったが、フェスティバルとしての雰囲気は最高だったよ。音楽フェスの醍醐味が感じられた」
ところでこの2日間、ピンク・フロイドが登場するまでの間で盛り上がっていたのは、実は谷底にあるサブ・ステージだったという。そこには稲垣次郎、佐藤允彦、菊地雅章、山下洋輔といった日本のジャズの精鋭たちが揃っていた。
ロック勢も、ニューロックを模索していたクニ河内とチト河内兄弟のハプニングス・フォー、町田義人が在籍していたズー・ニー・ヴー、ギタリスト成毛滋とつのだひろのユニット”ストロベリーパス”には、弱冠17歳の高中正義がベースで参加していた。
GS出身のモップスはこの頃のロックフェスにほとんど参加していたが、メインだけでなくサブでも演奏して盛り上がっていた。
当日の会場にいた放送作家の田家秀樹は、サブステージのほうがロックフェス的だった気がすると当時を回想している。
メインは高原の平地、サブは窪地の底。谷底のステージみたいでしたね。明らかに扱いが違った。でも、僕はサブステージの方に感動したんですよ。ロックイベントぽかったのかな。
ピンクフロイドを除けば、意外にもサブステージに出ていた日本のジャズメンやロックバンドが盛り上がっていたというのは、現場にいたからこその貴重な証言だろう。
彼らが出た時は霧がかかって神秘的でしたし、まさにピンク・フロイドだったんですけど、どう言えば良いんだろうなあ。僕等がイメージするロックフェスは、サブステージだったんですよ。ウッドストックみたいに、みんながロックで”ノル”感じですよ。
確かにその後、佐藤允彦や菊地雅章、そして山下洋輔トリオは毎年のようにフェスなどに呼ばれて、海外でも活躍することになる。
(注)本コラムは2015年8月7日 に初公開されました。文中の記者会見のコメント、Q&Aは音楽雑誌「ミュージックライフ」及び「ライトミュージック」からの引用です。同じくニック・メイソンの言葉は「週刊朝日」2014年11月28日号よりの引用です。田家秀樹しの発言は「田家秀樹ブログ・新・猫の散歩 71年、箱根アフロディーテ」からの転載です。
「原子心母(箱根アフロディーテ50周年記念盤)」
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