1969年、東京12チャンネル(現テレビ東京)のディレクターとして、数々の過激なドキュメンタリー番組を制作していた田原総一朗が興味を持ったのは、日本のジャズシーンを牽引する期待の若手のジャズピアニスト、山下洋輔だった。
1967年に国立音楽大学を卒業して夏には結婚した山下だが、プロのミュージシャンとして精力的に活動していこうという矢先に病気で倒れる。診断結果は肺浸潤、肺結核の初期症状だった。
およそ1年半の療養を経て演奏を再開した山下だったが、ブランクを埋めるのは簡単なことではない。そんなときに思い出したのが、オーネット・コールマンやセシル・テイラーといった、型破りのジャズメンたちだった。
僕はこういう人たちのことを知りつつも、「これは悪い音楽だ。近寄ってはいかん」と思っていた純粋な青少年だったんです。その後、病気で1年半入院して27歳で復帰したとき、自分の欲しい音が出てこないし、どうしても追いつかない。
そのうちに、そういえば掟破りの悪い音楽があったな、あれをやってみたら自分が解放されるんじゃないかと思って、バーッとやったんです。それからはそういう音楽ばっかり。
(dot.ドット 朝日新聞出版:ジャズピアニスト山下洋輔 大学で“真っ当な事”教えてる?)
テナーサックスの中村誠一やドラムの森山威男らとバンドを組んで活動し始めると、あっという間に評判になって、テレビ局でドキュメンタリー番組を作っていた田原総一朗の耳にも噂が届いたのだ。
しかし、田原はライブハウスで演奏しているのをただ撮るだけなら、わざわざドキュメンタリーにする必要はないと思った。そこで切り口を見つけるために、山下と直接会って何度か話をしてみた。
その中で山下が口にしたのが「ピアノを弾きながら死ねればいいなあ」という言葉だった。それは病気によって1年半もピアノを弾けない体験があったからこそ、思わず出てきた言葉だったのかもしれない。
田原はその言葉を受けて死に場所を用意し、その瞬間をドキュメンタリーにしようと動き出した。
田原が用意した舞台は学生運動の真っ只中だった早稲田大学。学生たちによってバリケードで封鎖されたままのキャンバスは、いくつもの左翼や新左翼のセクト(派閥)が敵対しあって一触即発だった。
中でも過激なことで有名だったのが「中核派(革命的共産主義者同盟全国委員会)」から分離した、「反戦連合」と呼ばれるセクトだった。
田原はそのリーダーとコンタクトを取って相談し、「面白い」ということで協力を取り付けた。2人が考えたのは大隈講堂で大事に保存されているピアノを無断で持ち出し、敵対する日本共産党系のセクト「民青(日本民主青年同盟)」が占拠する4号館の地下へ運んで、強引に演奏会を催すというものだ。
演奏中に「民青」が入ってきて「反戦連合」との内ゲバ(乱闘)がはじまり、騒ぎを聞きつけた他のセクトも集まってきてゲバ棒(角材の棒)で攻撃しあい、火炎瓶の飛び交う大騒動となる中で山下洋輔が死ぬというのが、田原の描いたシナリオだった。
内ゲバに巻き込まれて死ぬというのは決して冗談などではない。この数カ月後には実際に、2名の死者が出ることになるのだ。
企画を聞かされた山下も乗り気になって、その危険極まりない演奏会が実行される運びとなった。
そして7月某日、早稲田大学の構内には『JAZZによる問いかけ 山下洋輔トリオ 相倉久人 平岡正明』という張り紙が出された。場所は記載されず、14時という時間だけが書いてあった。
本番前、大隈講堂から黒いヘルメットを被った「反戦連合」のメンバーらが、ピアノを押しながら現れてそのまま「民青」の占拠する4号館へと向かった。幸いにも「民青」のメンバーと鉢合わせることはなく、ピアノがすんなりと地下まで運び込まれた。
14時になって山下洋輔トリオによる演奏がはじまると、予想通りに「民青」が駆けつけてきた。だが、全身から汗を吹き出しながら、命がけで音をぶつけあう3人のミュージシャンを目にすると、彼らはそのまま演奏を聴き始めた。
既成概念を叩き壊すような掟破りのジャズに共感するものを感じたのか、敵対するセクトが乗り込んできているにもかかわらず、両者の間では最後まで内ゲバが起きることはなかった。
山下によれば、「我が生涯で最も印象に残る演奏だった」という。だが、田原は内ゲバが起きなかったので、少し残念だったようだ。
みんな静かに聞いてる。ヘルメットかぶって、いつ何か起きてもおかしくない緊張感はあるんだけど、ついにゲバは起きなかった。だから僕的には失敗だったね。山下さんはぴんぴん生きてるんだから。
収録されたライブの模様は7月18日、『ドキュメンタリー青春 バリケードの中のジャズ~ゲバ学生対猛烈ピアニスト~』というタイトルで放送された。
そして2年後には番組の音源を元にして、『DANCING古事記』が自主制作でレコード化された。
そのライナーノーツで山下は、「ジャズは芸術でもなければ作品でもない」として、自分たちの音楽についてこう説明している。
ジャズの発生がどうであったかは知らない。外国のジャズマンがどう考えているかも知らない。ただ我々は、ジャズの中に、我々が立ち戻るべき音楽の原型(PROTOTYPE)を、今、見出したことを宣言しておこう。
参考文献:
『即興ラプソディ 私の履歴書』山下洋輔著(日本経済新聞出版社)
NIKKEI STYLE:41年前の映像発掘「バリケードの中で山下洋輔が弾く」 田原総一朗が語る自作ドキュメンタリー
山下洋輔『DANCING 古事記』
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