1969年にシングル「夜が明けたら」を発表して以降、日本のアンダーグラウンド・シーンを代表するアーティストの一人として活動をしてきた浅川マキ。
ブルースやジャズ、ゴスペルといった音楽をベースに歌われる独特の世界観は、同業のミュージシャンをはじめとして多くの人たちを惹きつけた。
そんな彼女がフリー・インプロヴィゼーション(即興演奏)の世界に踏み込んだのは、1970年代の終わり頃になってである。
きっかけはミュージシャン仲間だったフリー・ジャズのアルトサックス奏者、阿部薫が1978年の9月9日に亡くなったことだ。
浅川マキは自著『幻の男たち』の中で晩年の思い出を語っている。
それは初台にあるライヴハウ「、騒(GAYA)」で、阿部薫のライブを観たときのことだった。
演奏が終わって観客が帰ると、店内にはお店の人以外に阿部薫と浅川マキの2人だけとなった。
阿部は浅川をピアノのそばに呼ぶと、一番好きな曲だと言ってスタンダード・ナンバーの「恋人よ我に帰れ」を弾きはじめた。
ステージで壮絶なサックスを吹いている彼の姿を思えば、それは意外な選曲だった。
よほどその姿が印象的だったのだろう、阿部薫が亡くなると浅川はこの出来事を「あの男がピアノを弾いた」という唄にした。
……ただ阿部薫さんのことであっても、阿部薫に捧げるとか、そういう形では作りたくない、そういう発想もない、阿部薫という個人名は入ってないし……
レコーディングに呼ばれたのはピアノの山下洋輔、ベースの川端民生、トランペットの近藤等則といった日本を代表するジャズ・ミュージシャンたちだった。
最初は新宿のライブハウス、ピットインで録音し、その後スタジオでもう一度録音することとなった。
そしてレコーディングの本番、山下洋輔は何の予告もなく、突然ものすごい速さのテンポでピアノを弾きはじめた。
ジャズ・ミュージシャンっていうのは何か唄わないと演奏してくれませんから、取り敢えず、ああっーっと思ったけど、何かこれは言わなきゃ――メロディも何もありません。最初は一応メロディはあったんですけど、それどころじゃないわけですよ、……川端さんは途中からあまりのことにヘッドホーンがはずれちゃったんですよ。もう全部フリー・インプロヴィゼーションになっちゃったわけですよ、唄も含めて。
山下が事前にテンポを上げたいと言わなかったのは、演奏直前にふとテンポを変えたくなったからなのか、あるいは想定から外れることで、浅川を予測不可能なフリー・インプロヴィゼーションの世界に引きずり込みたかったからなのか。
3人のジャズ・ミュージシャンによって激しいフリー・インプロヴィゼーションが繰り広げられる中、浅川はただその音に身を任せて歌うしかなかった。他のプレーヤーたちはその歌声に反応してさらに白熱していく。
阿部薫の音楽さながらの凄まじい緊張感と疾走感、そして4人による一体感を保ったまま演奏は終わった。
最初は動揺した浅川だったが、録音された内容は素晴らしく、テイク・ワンでOKとなった。
そのスタジオがテイク・ワン・スタジオという名前だったこともあって、アルバムのタイトルは『ONE』となる。
『ONE』というのはこれが始まりだなという気がしたもんで、そういうタイトルを付けたんですけれども、また毎日が始まりということで言うならば、もっと大きな意味で、音楽のまた始まりでもいいんじゃないかっていうことで、あそこらあたりから、もう全然私の音楽は変わってきちゃったんですけども。
♪「あの男がピアノを弾いた」(『ONE』に収録されているのとは別バージョン)
引用元:
『幻の男たち』浅川マキ著(講談社)
『ロング・グッドバイ-浅川マキの世界』浅川マキ、他(白夜書房)
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