自身の歌の中で、様々な物語を描いてきたキャロル・キング。
その想像力はラジオによって培われたものだという。
私の成長期の大部分を占めたラジオ番組は、耳からの情報を独自に現実として映像化するイマジネーションを植え付けたと言っていい。
キャロル・キングが生まれたのは1942年2月9日、場所はニューヨークの郊外、ブルックリンだ。
母親が近所の子どもたちにピアノを教えていたこともあり、キャロルのそばには常に音楽があった。
物心がついた頃には母親からピアノを習っていたというキャロルは、自分の頭の中にあるメロディをピアノで鳴らすことに楽しみを覚えたという。そのメロディは母親によって譜面として残された。わずか3歳にして作曲をしていたというわけだ。
幼くして音楽に親しむようになったキャロルにとって、もう1つの楽しみだったのがラジオだ。
それは単なる娯楽にとどまらず、新しい言葉や音楽、物語を教えてくれる、いわば想像力の源泉だった。
ラジオから聴こえてきた歌をキャロルがピアノで弾こうとしていると、母親がキッチンからやってきて、2人でピアノを弾きながら歌い出す。すると父親がそれを聴きに2階から降りてくる、そんな絵に書いたような幸せな日々を送るのだった。
キャロルの人生を大きく変えたのもまたラジオだった。
1954年9月、ニューヨークのラジオ局、WINSにアラン・フリードが移籍してきた。
アランはそれまで黒人だけの音楽だったリズム&ブルースを白人の若い世代に広め、ロックンロールという言葉を定着させた功績から、のちにロックの殿堂入りを果たしている伝説のDJだ。
白人の歌うポップスとは全く違うその新しい音楽は、キャロルをこれまでにないほど音楽に熱中させた。
アラン・フリードの回すプラッター(お皿)は私の肉体、精神、心、魂の細胞一つ一つを活性化していたと思う。
キャロルによれば、アランは自分の流す音楽を“ロックンロール”と呼ぶ以外に、“ビッグ・ビート”とも呼んでいたという。
それまでのポップスにはなかった力強いビート、それこそがキャロルの心を掴んだ一番の要因だった。
私を感動させたのは歌詞とビートで、特にビートが重要な位置を占めていた。メロディはあるにはあるが、子供が作ったかのように聴こえる曲が多く、そう感じたことで、彼らにできるなら私にもできるかもという発想に変わったのだった。
自分もミュージシャンになれるかもしれないと思ったキャロルは、なんとかしてアラン・フリードに自分の音楽を聴いてもらえないかと考えた。
相談を受けたキャロルの父親がラジオ局に働きかけると、すぐにアランとの面会を取りつけることができた。ニューヨークの消防士だった父親は、バッジを見せるだけでどこでもVIP待遇になったのだ。
憧れの人物との対面にキャロルは緊張の面持ちだった。
アランは15歳の少女の歌にじっと耳を傾けて聴くとその才能を認め、どうすればデビューすることができるのか、そのプロセスを詳しく教えてくれた。
そのプロセスとは、電話帳からレコード会社に電話してアポイントメントを取り、新人発掘担当に聴いてもらうというものだ。
しかしキャロルは大胆にも、アポイントを取らずに飛び込みでレコード会社に行くという行動に出た。
それが功を奏したのか、大手レコード会社のABCパラマウントとの契約にこぎつけ、キャロル・キングは晴れてデビューすることが決まった。
キャロル・キングにミュージシャンになることを決意させ、そしてデビューまでの道を指し示したアラン・フリードは、いわば水先案内人のような存在だった。
ところが、残念ながらキャロルのシングルはまったくヒットせずに終わってしまう。
そんなとき、キャロルはソングライティングのパートナー、そして夫となるジェリー・ゴーフィンとの出会いを果たすのだった。
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27歳で訪れていたキャロル・キングにとってのターニングポイント
※キャロル・キングの発言はこちらからの引用です
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